クリスマス礼拝

結城浩

2003年12月21日

今日の礼拝は、クリスマス直前の日曜日ということでクリスマス礼拝でした。 イエスさまがこの世に誕生してくださったということの意味を、もう一度しみじみと考えた礼拝でした。

以下、心に浮かぶまま書いてみる。

神さまは、私たちを愛していてくださる。 私たち想像する以上に、神さまは私たちを完全な形で愛していてくださる。 しかも神さまは、そのことを私たちに伝えてくださる。 神さまは聖書を通して「わたしはあなたを愛している」と伝えてくださる。

人はひとりひとり異なるものだから、 神さまが私たちひとりひとりをお取り扱いになるその方法や手順、段取り(?)は みな異なる。他の人と比べることはできない。 ひとりひとりにとって最高の時、最高の場所をお選びになるだろう、と私は信じている。 なぜなら、神さまは完全な方だからだ。 神さまは、私たちひとりひとりを十把ひとからげには扱われない。 神さまは、私たちひとりひとりの個性・人格をとても大切に扱ってくださるに違いない。

神さまは、私たちをお造りになった。 神さまが私たちをお造りになるからには、きっとそこに(一人一人の)目的があるに違いない。 私は「私を神さまの御用のために用いてください」と祈るのが好きだ。 結婚前、彼女(現在の家内)が「あなたの御旨のままに私を変えてください」という祈りをしているのを聞いて感動したことがある。

自分を自分の思うとおりに動かそうと考え、動かせると考えるのはいささか傲慢な場合がある。 自分を神さまに委ねて生きる人生でありたいものだ、と思う。 そのような委ねて生きる人生というのは、ロボットのような人生ではない。 自分が判断するとき、行動するとき、いつも神さまの基準で物事を考える人生だ。 What would Jesus do? ―― イエスさまだったら、どうするだろう?―― そのように問いながら生きる人生は何と素晴らしいことだろう。

…と、優等生のような文章を書きながらも、私は思う。 自分にはそのような人生を送ることはとても難しい、と。 前向きに生きる、神さまに委ねて生きる、愛に生きる。言うはやすく行なうは難し、だ。 …でも、でも。 「自分の力でできない」ということを自覚した上で「いや、でも神さまは必ず成してくださる」と心に刻もう。 神さまは無意味に私を、私たちを作ったわけではない。 なすべきことをなす能力を与え、愛を示すための機会を与え、信仰を告白する機会を与えてくださるに違いない。

たとえば、今。こうやって私は文章を書いている。 日記として文章を書いて、インターネットで公開している。 「神は愛です」と語り、「イエス・キリストこそ私たちの主です」と信仰告白し、 「あなたもイエスさまを信じ、永遠の救いを受けとり、愛に生きる人生の一歩を歩みましょう」と読者に勧める。 「聖書を読みましょう」「教会に行きましょう」「自分の罪を神さまに告白し、イエスさまに赦していただきましょう」と書き記す。

私の日記を読んでいる読者の中から 「あ、今度、教会に行ってみようかな。聖書を読んでみよっかな」 と思う人が出てくれることを私は本当に期待している。

  • 「そういえば、むかーし行ったことがあったな。クリスマスにでも足を運んでみるか」
  • 「いつの間にか足が遠のいていたけれど、また行くようにしようかな」
  • 「聖書、聖書…どこにしまったっけ。コリント13章の愛の賛歌が好きだったんだよね」

現在、つらい日々を送っていらっしゃる方、あるいは何が大切なことなのか見失ってしまった方、 生き生きとした人生を送るにはどうしたらよいかと真剣に考えている方… 私の日記の読者さんの中にはそういう方はいらっしゃるでしょうか。 ぜひ、聖書を読んでください。教会に行ってください。 聖書がとっつきにくいという方は、三浦綾子さんの入門書を読まれるのもよいでしょう。 あなたが若くても、年配の方でも、学生でも、会社員でも、主婦でも、 どんな方に対しても、神さまは、聖書を通してあなたに必要なメッセージを与えてくださるに違いありません。 私は、そう信じています。

あなたの「次の一歩」を、神さまが導いてくださいますように。