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朝、仕事の話をえんえんと家内に電話で話す。 家内は、いつものようにふんふんと聞く。 そしてときおり私が驚くような本質的な質問や意見を言う。 こういうとき私は、家内が本当に賢い人なのだなあと感心する。 家内にそう言うと、へへ、と照れつつ笑う。 私は家内の意見に耳を傾けるが、 それは家内ががんがん意見を言うからではない。 むしろ逆で、家内がじっとこちらの言うことをよく聞いてくれるからだ。
逆説的なのだが、相手にこちらの意見を聞いてもらいたかったら、 相手の言うことをよく聞くのがよい方法だ。 つぼにぴったりあった指圧はそんなに力を入れなくても効く。 それと同じように、 相手の必要にぴったりあった意見はがあがあ言わなくても効くのだ。 そして相手の必要にぴったりあう意見を言うためには、 その前に相手の語っている言葉にじっくりと耳を傾ける必要がある。
スムーズなコミュニケーションは七難隠す。 自分が何をいっても怒られない、 何をいっても馬鹿にされない、 何度繰り返してもうっとうしがられない、 そのような保証の元での会話はとても気が楽だ。 そして往々にして楽しい。
きっとここまでは多くの方がうなづく。 でも。すぐに疑問がわく。 でも、そういうコミュニケーションはどうやったら確立できるんだろう。 (クリスチャン向けには聖霊様の助けを求める、という説明が一番直接的だと思う。 「聖霊の親しき交わり」という頌栄のメッセージは伊達ではないのだ。 聖霊が臨むとき、親しき交わりが回復される。でもいまはそっちの方向の説明には深く入らない)
コミュニケーションは双方向的である、というのは少し助けになるかな。 つまり、コミュニケーションがうまくいかないとき、 たいていの問題の原因は人と人との「関係」にある。 片方だけが原因であることは少ないのではないか。 ある人は「あの人がいけない」と言う。 ある人は「私が悪いのよ」と言う。 でもたいていは、どちらも悪くなくて「関係」が整っていないことが原因ではないか。 あいつがわるい、じぶんが悪い、どっちが悪い、 とやっているとそこで思考は停止してしまう。 停止しない場合には相手を矯正するか自分を矯正するか、 という話になってしまう。 悪循環。
関係を改善するにはどうしたらよいか。わからない。 多分、常に効く具体的な方法はない(神様に信じて祈る、という方法はあるが)。 常に効く一般的な方法はある。「愛」だ。 コミュニケーションがうまくいかないとき、 すなわち人間関係がうまくいかないとき、 たいていは互いが互いを避けたり、うっとうしくなったり、 会話がさらにぎこちなくなったりする。 そこを改善するのはやはり「愛」ではないか。 「だって、好きになれないもん」 ああ、いいです、いいです。 好きになれないなら好きになれないでも。 ヒントとしては、 自分と相手が原理的には同じ価値を持っていると思うこと(神様はすべての人を愛している)。 もしも自分が相手の立場だったら、どんな風に何を伝えてほしいかと想像すること。 好き嫌いは感情的なものだし、相性のようなものもあるから、 あまり好き嫌いにはこだわらず、 それとは独立に愛することを考えたほうが楽かもしれません。
いわばこの世は愛の練習場。 この地上の世を天国だと思いたい人には、 他の人とのやりとりがうまくいかないのは耐えられないかもしれない(何で神様はこんな困難があるような世の中を作ったのだろう、とか思ったりして)。 でもこの世を練習場だと考えると、さまざまな課題がやってくるのは自然なことであり、耐えやすくなるのではないか。 いきあたりばったりの(いわば一夜づけの)対処をしていると、なかなか課題をこなせない。 でも課題の中心にある学習要項 ---- 愛 ---- に気がつくと、ちょっと楽になるのではないか (もっとも、やってくる課題はときに難しくなるわけですがね)。 もちろん、時にはいきあたりばったりの対処だってすることもある。 逃げ出しちゃうときもある。 そういうときも、よくある。 でも、それもぜーんぶひっくるめて人生だ。 ああ、私のいまの実力はそういうものなのだ、とそのままそっくり認めよう。 自分の現状をマジに認めて、そこを出発点にする。 もしかしたら、 キリスト教における「罪の告白」というのはそういうことを含んでいるのかもしれない。 だから、愛なる神様に対して、自分の罪の告白をするのは非常に非常に正しいことなのだ。
そして、自分の現状を認めた後になってはじめて、はっ、と気がつくのだ。 自分が苦手なあの人も、私と同じ状況に立っているのだ、ということに。 具体的な課題は違うかもしれない。困難さの度合いだって比較はできない。 でも、わたしもあの人も、愛を学ばなくてはならないのだ。 愛なる神様から愛を受けなければならないのだ。 「愛」の練習場の中に、自分も、相手も立っているのだ。
(2000年1月22日の日記から)