「子供を殺す」ということの意味

結城浩

家族で『プリンス・オブ・エジプト』をビデオで見る。 次男はとても気に入ったのか「もーせのびでお、もーせのびでお」と何度も繰り返して言う。 長男のお気に入りは「十のわざわい」のシーンである(おいおい)。

神さまの啓示を受けて、奴隷状態の民をエジプトから去らせよ、とファラオに要求するモーセ。 労働力を失うのを嫌がり、それをはねつけるファラオ。 そして神さまからエジプトに対して「十のわざわい」がやってくる。 一番最後の、一番大きなわざわいは「初子が殺される」というもの。 (ヘブル人は殺されない。いや、軒に血を塗っていた家の子は殺されない。 神さまがその印――神への従順の印――を見て過ぎ越されるからだ。 これがあの「過ぎ越し」です。この「血」はイエスさまが流す血も表している)。

ファラオの子供も殺される。これでファラオは民を去らせることになる。 子供を失うというのは親にとって最も大きな衝撃なのだ。 家内はこのシーンを見て「ここではエジプトの子供が殺されているけれど、 それ以前、ヘブル人の子供もたくさん殺されているのよね。 モーセは逃れられたけれど。 エジプトの子供が殺されるのは、神さまからの報復でもあるかもしれない」 と言う。 子供の大量殺戮といえば、イエスさまが生まれたときもそうだった。 イエスが生まれたとき、恐れた王はその地域の子供を皆殺しにした。

子供を殺す。これは何とひどいことか。何と残酷なことか。――と思って、ふと気がつく。 私たちも子供を殺したではないか。 神さまのひとり子である、イエスという男を、十字架につけて殺したではないか。 罪のない子供をむごたらしくも殺したではないか。 ある者は自己保身のために。ある者は自分の支配欲のために。 ある者は事なかれ主義で。ある者は、自分が何をしているかわからないままに…。

「罪」の問題を考えるとき、私たちは――私は――つい、 「こんな小さなこと、こんなちょっとしたことなら」と考えてしまう。 でも、まさにその「罪」こそ、イエスさまの血が必要になった理由なのだ。 言い換えれば、自分の自己保身が、支配欲が、事なかれ主義が、無知が、 子供をむごたらしく殺すことになった原因なのだ。

と、そこまで考えてきて、私は途方にくれてしまう。 なぜかというと、私はきっとこれからも罪をおかしてしまうだろうから。 さまざまなことに失敗してしまうだろうから。 誘惑に負けたり、自分勝手に振る舞ったり、自己保身に走ってしまうだろうから。 私はめったに自己嫌悪には陥らないけれど、 自分自身の無力さということは確信しているのだ。

しかし――しかし。 幸いなことに、私は、救い主の存在を知っている。 それはその十字架にかかったイエスさまご自身だ。 イエスさまを十字架にかけて殺したのは私だけれど、 イエスさまはそのような私をゆるしてくださるからだ。 実際、イエスさまは十字架の上ですら、父なる神さまに対して、 とりなしをしてくださったではないか。

そして、 イエスさまご自身が、この世での肉体がなくなった後、 栄光のからだに変えられることをお示しになってくださった。

イエスさま。イエスさま。 わたしは本当に弱い存在です。助けてください。 すべての誘惑から守ってください。人生のどんな荒波がやってきても、 ゆらぐことのない信仰を与えてください。 自分の弱さを認め、いつもあなたを見上げる信仰を与えてください。

そしてイエスさま。 あなたから与えられたこの世での命をまっとうした後は、 あなたが私をどうか天国に引き上げてください。 私の力で天国に行くことはできません。 私は永遠のいのちを受けるに値しない存在です。 しかし、あなたは私を救ってくださると約束してくださり、 永遠のいのちを与えることを約束してくださいました。 あなたは公正な方、約束をたがえない方。 あなたが私を――そしてあなたを信じる者すべてを――天国に迎えてくださいますことを 先取りして感謝します。アーメン。

イエスさま。この日本の多くの人は、あなたを信じていません。 しかし、つらい時代である現在、多くの人が本当の救いを求めています。 主よ、どうか私たちをあわれんでくださり、 この苦しい時代をもお用いくださって、 あなたを信じる人をひとりでも多く起こしてください。

特に、何らかのきっかけによってこのWebページを訪れた人に、 主からの特別の導きがありますように。 聖霊様が働いてくださって、聖書の言葉が解き明かされ、 神さまからの愛のメッセージ、イエスさまの救いを受け入れる人が起こされますように。 イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

(2002年5月24日の日記から)

豊かな人生のための四つの法則