「自分が負うべき十字架」とは何でしょう

結城浩

読者のお一人から「自分が負うべき十字架」について質問がありました。 本来はきちんと参考書で調べるべきなんですが、 以下、わたしの個人的な考えを書きます。 間違ったことを書いていたらごめんなさい。

結城です。 主の御名を賛美します。

私は「自分が負うべき十字架」というのは、 神さまが自分に与えてくださる使命のことだと思っています。 使命というと大げさになってしまいますが、 神さまが自分を生かしてくださるのには目的があります。 その目的を捜し求め、それに従うことです。

大きな能力を与えられて、大きな目的を果たす人もいます (たとえば牧師先生などは、 たくさんの人に神さまの言葉を伝え、 教会の信徒を神さまの言葉で養うという大きな目的があります)。

ある人はお金もうけが得意で、 その能力を神さまの御用に用いる場合もあるでしょう。

ある人は人をもてなすことがうまくて、 その能力を神さまの御用に用いる場合もあるでしょう。

ある人は強い信仰があって、 その能力を神さまの御用に用いる場合もあるでしょう。

ある人は賛美の能力があって、 その能力を神さまの御用に用いる場合もあるでしょう。

ある人は何もできないけれど、 ひたすら「祈りの人」として教会を支える場合もあるでしょう。 ――こういう人は目立ちませんが、非常に重要です。

ある人は教会の奉仕は何もできなくても/何もしなくても、 愛にあふれた家庭を作り出す人もいるでしょう。

神さまの働きはありとあらゆるところに及びます。 そして私たち、神さまを信じる人たちは、それぞれの能力と立場を使って 神さまの栄光を示す担い手となるのだと思っています。

私は「自分の十字架を負う」というのは、 そういう意味を持っているのだと理解しています。 他の解釈もいろいろとあると思います。 本来は、きちんと参考書にあたり釈義を調べてみるべきですね。

ルカ9:23には「イエスさまについていきたいと思うひと」はどうするかが書かれていますね。 神さまに従うときには (1)自分を捨てること (2)自分の十字架を背負うこと と書かれています。 神さまに「従う」ことの意味を考えさせられます。 「自分の十字架を背負う」ということは、 「神さまに従う」という文脈で理解する必要がありそうです。

そして、有名な次の御言葉が続きます。

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、 わたし[イエスさまのこと]のために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。 人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。 (ルカ9:24, 25)

以上、何かの参考になれば。 (にっこり)

(2003年8月25日の日記から)

豊かな人生のための四つの法則