礼拝というもの

結城浩

スリヤ牧師といえば、 ずいぶん以前に池袋のシティチャーチの礼拝にそっと参加したことがある。 場所は池袋のメトロポリタンホテルから歩いてちょっと。 礼拝の賛美はまさにあのCDと同じノリである。 賛美というのはこれほどまでに力があるのか、と思わされましたね。 もちろん賛美だけではなくメッセージもすばらしかったです。 聖霊に触れられ、満たされて、 涙がひとりでにぼろぼろとこぼれてしまったのをよく覚えています。

礼拝というのは、単に聖書の知識を学ぶだけの場所ではない。 また、単に音楽を楽しむ場や、何らかの体験を求めるだけの場所でもない。 イエス様がその中心にいらっしゃる。 私たちはそれを喜び、感謝し、味わい、学び、体験し、共有し、励ましを受け、 慰められ、元気付けられ、癒され、霊に燃え、…。 礼拝は、そういった複合的なもの、全体的なもののように感じられる。 そして、人間に対してではなく神様に期待するとき、そこで、自分に「何かが起こる」のだ。

いま教会に行っている人でも、昔行ったことがある人でも、 教会に対して、牧師に対して、あるいはそこに集う人に対してさまざまな思いを持っている。 それは必ずしもよい思いだけではないかもしれない。 けれど、それはそれとして、何度も神様に期待しよう。 神様に求めていこう。神様に感謝しよう。 礼拝を通して、賛美を通して、聖書の学びを通して、 神様との交わりの時をもち、霊的に養っていただこう。 すべてを益に変えてくださる主に信頼しよう。 イエスキリストの十字架の、自分にとっての意味を再確認しよう。 今日の、自分にとっての意味を、もう一度考えよう。

主はわれらの羊飼い。 私たちには乏しいことがない。 私たちは羊に過ぎない。 羊飼いの声に耳を傾けよう。

ハレルヤ!

(2000年10月20日の日記から)

豊かな人生のための四つの法則