自分に過敏になってつらいときの対処方法

結城浩

2000年1月14日

私の気持ちが落ち込むときにはパターンがあって、 叱られたときとか叱られると思い込んだときが多いような気がする。 前にも書いた気がするが、 自分の行動や自分の考えに神経質・過敏になっているときがつらくなるパターンだ。 他の人はそんなに私のことを意識しているわけではないのだが、

「あの人はこう考えるのじゃないか」
「こんなことを言われるのじゃないか」
「なぜこれをしなかったと詰問されるのじゃないか」

などという気持ちがぐるぐるすると、何だかいてもたってもいられなくなる。 そういう思い込みはこれまでに何度も何度も経験していて、 ほぼ100%私の思い込みにすぎないということがわかっていても、 感情的にはゆすぶられる。 そういうときには、どうするか。 神様に祈ってすっぽり受け入れてもらって、安心する。 誰か(例えば家内)を捕まえて、言いたいことをしゃべっちゃう。 自分の胸の中にある「どーしよ、どーしよ」という気持ちをお手々でくるくるっと丸めて(比喩ではありません)、 ちょっとわきにぽん、と置いてみる。 「そのことは後で考えることにしよう」と決めちゃって、 機械的に自分を動かしたりすることもある。

自分の神経質さ、過敏さ、というのがちょっぴり面倒になることもあるけれど、 これもまた神様が与えてくださった私の一部、という目で見てあげる。 そうすると、まさにこの神経質さと過敏さが、 人に対する思いやりや細かなケアに深いところで関係していることがわかる。 私はいつも思うのだけれど、 人の性格はその一部分だけを取り出して都合のいいように矯正することって無意味じゃないだろうか。 リンゴの傷んだ部分だけをナイフで切り出すようなことはできないのじゃないだろうか。

もちろん、性格のゆえに、苦しかったり都合が悪いことが起こることもあるだろう。 でも、それは性格が悪いというよりも、 もっと全体的なバランスが崩れていることが多いのじゃないだろうか。

ピアノで美しい曲を弾いているときに、出し抜けに真ん中のドの音を思いっきり叩いてみる。 もちろん曲はだいなしになる。でもだからといってドの鍵が悪いわけじゃない、 ドの鍵をピアノから除いてしまっては、曲の中でドを弾くべきときに困ってしまう。 人間の特性や性格も、適切な時に適切な程度だけ開かれることが必要なのではなかろうか。 でも神ならぬ人間はその用い方を間違ってしまう。 そして特性や性格そのものを攻撃してしまう。

神様は私をまるごと愛してくださっている(もちろん、あなたも)。 神様は私という「ピアノ」を使ってすばらしい曲を弾こうとしていらっしゃる。 私は、でも、おうおうにして神様を悲しませる曲を弾いてしまう。 そして「ああ、このドの鍵盤が悪いのだ」と思ってしまう。 でも神様はそうは考えないのではないか。 個々の鍵盤が悪いから取ってしまえ、とは考えず(もちろん神様が必要だと思えばそうなさるであろうが)、 正しいタイミングで正しい強さで鍵盤を叩くことを神様は辛抱強く教えようとなさっているのではないか。 …そんな風に私は考えている。

私も、あなたも、他のみんなも、同じ人間であり、一人一人違う人間だ。 だから比較は無意味だ。 神様はそれぞれ一人一人をお作りになり、 それぞれにかけがえのない人生をお与えになる。 交換不可能な人生なのだから、比較することもできない。 みんな、神様が与えてくださった「自分の人生」を生きるのだ。 比較がないのだから、失敗もない。 だから、人生に恐れる必要もない。

恐れるべきお方は神様ただ一人である。

あなたはどう思いますか。