愛をもって真理を語る

結城浩

愛をもって真理を語り、 という表現が、 新約聖書 エペソ人への手紙4章15節に出てくる。 けさ、バスの中で聖書を読みながらこの言葉が妙に心にひっかかり、 バスを降りてからも胸の奥で繰り返し唱えていた。 「愛をもって真理を語る」「愛をもって真理を語る」

まとまらないまま、話を書いていこう。

「愛を 忘れて 真理を語る」状況の例というのはすぐに思い付く。 例えば、話している相手の欠点をあげつらうこと。 確かに真実を語っているかもしれないが、 相手のことを考えていないとき。 正しいから、といってすべて語ってよいとは限らない。 …そんなふうなことを思う。 自分自身、これまでにたくさん、 「愛を忘れて真理を語った」ことがあるように思う。 たいていは自分のプライドのために。 たいていは相手に対して優越感を感じるために。

「真理を語る」という表現で例えば私が思い付くのは、神さまの話だ。 私は神さまの存在を信じているし、神さまがどんな方であるかも学んで知っている。 私が信じているそのことを語るのは、真理を語ることだとも思っている。 しかし、それを「愛をもって語る」というのはなかなか難しいことだ。

私は日記を書いている。 私は「祈りの小部屋」で祈りを書いている。 掲示板やチャットに顔を出す。 そこで私は自分の言葉でいろいろと書く。 人を傷付けることがないように、 と願ってはいるが、それは不可能なことである。 例えば「普通の人」という表現に傷つく人もいる。 また例えば、 「例えば「普通の人」という表現に傷つく人もいる。」 という言葉に傷つく人もいる。

今年一年、多くの言葉をオンラインで、雑誌で、本で publish してきた。 あるときは、メールなどで「励まされました」という反応をいただき、 私自身がとても励まされた。昨日もいただいた。感謝である。 またあるときは、メールで「傷つきました」という反応をいただいたこともある。 その内容に驚いたり、もうしわけなく思ったり、知らせてくれたことに感謝したりした。 感謝? そうねえ、感謝。 どんな内容でも、フィードバックは感謝である。 「傷つきました」メールで、私自身が傷ついたことはあまりなかったかもしれない。 それからメールや掲示板の書き込みの内容で腹がたったこともあまりなかった。 私の言葉で傷ついた方には申し訳なく思っている。

「愛をもって真理を語る」というのは本当に難しい。

(1997年12月26日の日記から)

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