休み明けで仕事に戻るのはすごくすごくいやである

結城浩

新年も5日になり、家内の実家から東京に戻って、仕事始め。 義父の入院は続いている[義父はこの数日後に帰天]。 家内と長男次男はまだ実家。

早朝に移動したのだけれど、 家を出るとき長男に「とーたんは東京に帰るからね」と言って起こす。 長男は目をつぶったまま頷く。 玄関のドアをあけたところで長男が「待って!」と声をあげたので、 私はまた家の中に戻り、両手を上げた長男を抱っこする。長男と家内が私を見送る。

休み明けで仕事に戻るのはすごくすごくすごくすごくいやである。 夏休み終わりの小学生状態だ。 いざ仕事をはじめてしまえばこの「いやさ」は夢のように消えるのだが。 そこに至るまでが長い長い。 やれやれ。

祈りはこういうとき「役に立つ」かというと、「役に立つ」 (役に立つという表現は正確ではない。実際に神様からの働きかけを受ける、という意味で使っている)。 ただし、問題は、こういうときにはそもそも祈る気分にはなれない、という点だ。 深呼吸をして、目を閉じて、手を上に上げ(いや上げなくてもいい)、 全部、全部、いつもの「いと高き、あの方」にお渡ししはじめさえすれば、うまくまわり始めるのだが、 そこまでの妨げが大きいのである。やれやれ。

深呼吸をして、目を閉じ、「 天にまします、われらの父よ 」と信じて祈り始めれば、過剰な自意識の殻が砕けはじめる。 それまでは「私が」「私を」「私に」「私は」という考えがぐるぐるしている。 まず、天のお父さんに呼びかけることで神様へと意識が向かいはじめる (ああ、イエスさまが教えてくださった「主の祈り」はなんと完全な祈りでしょう)。 見栄やプライドはもういらなくなる。 信じて心を開くとき、聖霊様が満たしてくださる。 そして私は本来の自分を取り戻す。 自分のことばかり考えていると自分を失う、というのは皮肉だが真理だ。

祈り始めるまでは、祈れない自分すらも嫌悪の材料になるのだが、 祈り始めると、祈れない自分すらも、神様は哀れんでくださっていることを思い出す。 そうだ、神様は私の弱いところにこそ、働いてくださる方なのだ。 そうそう、そうだった。 とクリスチャンになってから10年になるというのに、 また今日も思い出さなくてはならない、と苦笑する。 でもそのことで自分を責めたりはしない。

とにかく、信じて祈りはじめよう。 自分で答えを見つけてから祈りはじめるのではなく。 いま、すぐ、祈り始めよう。 そして神様に介入していただこう。

(2000年1月5日の日記から)

豊かな人生のための四つの法則