仕事の前の祈り / 神様に導かれる人生

結城浩

 > ところで、結城さんはお風呂で考え事をしていて、
 > 独り言はいわれませんでしょうか?

いや、言わないと思います。たぶん (^_^)。 祈っていることはありますが。

祈りといえば…仕事の前には神様にお祈りをするという話をよく書きます。 少し具体的に書きますと、 席についてパソコンの電源を入れますよね。さあ仕事だ、というわけです。 メールを読み始めたり、エディタを開くよりも前に、 心を静め「神様」と祈り始めます。 姿勢はどうでなければいけない、ということはないと思うのですが、 私はよく、机の上に両手を手のひらを上に向けて乗せ、目を閉じて祈ります。 そばにに他の人がいるときもありますが、あまり気にしていません。 大きな声を出して祈るわけじゃないし、そんなに長い時間祈るわけでもない。 慣れです、慣れ。

何て祈るかというと、まずは「神様」と心の中で呼びかけます。 誰に? だから神様に。 誰に祈っているかは、とても大切。 例えば、既婚女性がご主人に話しかけるとき、 それは相手が自分の旦那さんだとわかって話しかけていますよね。 誰でもいいから、ではなく、他の誰でもない「あなた」に話しかけますよね。 それと同じで、あの、聖書に書かれている、 全知全能の神様に向かって「神様」と祈ります。

祈り方を知らない方は「主の祈り」を唱えるのもよいですが、 呪文や念仏として唱えるのではなく、その意味を思いつつ唱えるのがよいと私は思います。 私はたいてい、神様をほめたたえる祈りからはじめます。 そして感謝の祈りもします。 具体的に思う感謝なことをあげ(数えてみよ主の恵み)、 それを感謝します(賛美は要求に先立つ。感謝は要求に先立つ)。 仕事で心配なことや、気になることを神様にうちあけ、 でも、神様が最善をなしてくださるという宣言に向かいます。

祈れないときや、信じられないときは、そのままそのことを祈ります。 祈れないときは、祈らせてください、と祈ります。 信仰が弱いとき、信仰を強めてください、と祈ります。 失敗したこと、罪を思い出したら、 それを心のうちで神様に告白します。 神様には罪を赦す権威があることを信じ、 聖書の言葉を信じて告白します。 イエスさまの十字架によってすでに救いは完成していることを思い返します。

「イエス様、あなたの十字架によって私の罪が赦されていることを感謝します。
あなたは私の罪のために十字架にかかりました。
あなたの血によって私の罪が洗い流されたことを感謝します。
あなたの十字架の死と復活を覚えて感謝します。いまも主が生きておられ、
まさにいま、ここで私に愛を注いでくださることを感謝します。
イエスさま、あなたこそ私の主です。あなたこそ私の救い主です」

罪を告白して、赦しの確信が得られることを祈り、 そして、心を開いて聖霊さまをお迎えします。 どうするかというと、その通り祈るのです。

「聖霊様、いま私の心を大きく開き、あなたをお迎えいたします。
どうぞ私のうちにいらしてくださり、私を満たしてください。
もっと満たしてください。
聖霊様が私をきよめてくださることを信じます」

ここでもまた、信じて祈ることは大切です。 はじめのうちは「信じて祈っているだろうか」などと自分の気持ちをチェックしがちなものですが、 おりにつけて祈っていると、 神様との祈りの時間が自分の気持ちにしっくりくるものです (ときには妙にごつごつするときもあります。それは神様は本当にリアルな方だからです)。

何度も何度も、毎日毎日、聖書を読んで(これは霊的な食べ物)、神様に祈って(これは霊的な呼吸)いると、 自分の中の霊が神様によって強められ、成長していくのです。 それは、他の人が人間的な目で見る成長や評価とは必ずしも一致しません。 神様に、自分の人生に介入していただき、成長させていただき、 そして神様の御旨のときに(いや、いつも)神様の御用を果たすことになるのです。 それは、人間の計画をはるかに超えています。自分が自分の頭で考える自分の人生ではなく、 神様が備えてくださる、違う次元の自分の人生です。

自分の我力で進めば、それだけの人生。自分の思いの枠内のちんまりした人生。 でも、神様の計画にしたがって歩むなら、 そんな枠や限界とは無関係のはるかに自由な人生を送ることができる。 私はそのように堅く信じている。そして、そのことを証言することができる。

私は毎日、充実した人生(それは必ずしもいつも楽しいばかりではないけれど)を送らせていただいている。 でも、いま自分がやっている仕事だとか、活動だとかは、自分の想像をはるかに越えている。 確かに私の仕事は私がかんがえ、私がやっているのだが、でも本当は、そうではない。 ここ、言葉で説明するのはとても難しいのだが…そう、神様と共同でやっているとも言えるし、 神様がすべてをやっているとも言えるし、私がすべてをやっているとも言える。 私は何もやっていないとも言える。 私は仕事をしながら、まるで他の人の仕事を見るように 「こんなことも神様はしてくださるんだ、すごいなあ。 イエスさま感謝します」と思っている。 他の人の仕事も感謝だし。うーん、説明って難しい。 何と言うか、すごく楽ですごく大変で、でも感謝なこと。 ドラマチックであると同時に、淡々とした毎日。 そんな感じ(どんな感じ?)なのですが。

えらそうに、敬虔そうに聞こえるかもしれませんが、 どうか理解していただきたいのは、私が何かすぐれているとか、資格があるということではないのです。 ぜんぶ、神様がなさったこと。 栄光は主のもの なのです。 私がやったことはなんだろう。 自分に罪があることを本気で認めた。 自分が自己中心的な人間であることを認めた(神様ごめんなさい)。 私がやったことって、 心を開き、神様を信じ、神様に明渡し、 そしてほんのちょっぴり「こうしたいなあ、神様どうでしょうか」 「こちらに進むべきなのでしょうか」という一歩を進めたことだけではないか。

その望みが神様の御旨なら扉は大きく開かれる。 そしたら確信をもって進めばよい。 神様の御旨ではないなら扉は閉ざされる。 そしたら再び祈って道を示していただこう(ああ、そうだった。結婚のときもそのように祈っていた)。 何度も何度も祈り、正しい道を示していただけるように祈る。 すると、本当の扉が開かれる。

あなたは、あなたの人生を何に賭けているだろうか。 お金か、人間か、仕事か、地位か、学問か、土地か、家か。 自分の人生を何にゆだねているだろうか。 どんな人でも(無宗教の人でも)みな自分の生きる道を模索している。 何かを頼りに、何かに従って生きている。 あなたは自分の人生を、何を頼りに歩んでいるか。 何を基準にして生きようとしているか。 あなたは自分に与えられた最高の財産 --- 自分自身 --- を何に、誰にゆだねようとしているか。

私は、 この一回きりの人生をクリスチャンとして歩めることを心から感謝している。 神様に感謝。

ぜひ、あなたも。

(2000年2月9日の日記から)

豊かな人生のための四つの法則