笑い飛ばせ、魔法の数字
- Count -

夢空間への招待状

結城浩

セサミストリートという子ども向けのテレビ番組をご存じだろうか。そこにドラキュラ伯爵風のスタイルをしたカウント伯爵という人物が登場する。彼はどうやら数を数えることに至福の喜びを感じるらしく、番組の中でひたすら数を数えつづけている。伯爵はあたりを飛び回るコウモリやら屋敷に紛れ込んだ人間やらを数える。そして正しく数え終わり、カウント伯爵が得意気に高笑いをするとなぜか空はにわかに雲で満たされ雷鳴がとどろくのである。やたらと陽気な伯爵なのだ。

数えることを楽しみ、正しく数えることが生きがいのようなカウント伯爵を見ていると、私はプログラマを連想してしまう。プログラマが毎日行なっているプログラム書きの仕事はその性質上、数と切り離すことができないからだ。

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先日、私の住まいのそばの林が根こそぎ倒され、そこに駐車場が作られた。せっかくの借景が消えたことを惜しみながら、私は駐車場が作られていく様を窓から眺めていた。駐車場は白いペンキで区画分けされ、順に番号がふられていく。私の内なるカウント伯爵が目覚め、描かれていく数字を数えはじめた。

ふと気がつくと、4番と9番のエリアがない。白ペンキの数字は1、2、3、の次に急に5に飛んでいる。6、7、8ときたら次はいきなり10番だ。番号が2箇所抜けている駐車場は異様な姿に見えた。

4は死、9は苦に通じるという迷信を信じている人がまだいたんだなと私は意外に思った。4が死、9が苦に通じるといって忌み嫌うのであれば、1は忌、2は荷、3は惨、5は誤、6は無、7は死地、8は破に通じると言って嫌わないのはなぜだろう。4は誉に通じ、9は久に通じるといって喜ばないのはなぜだろう。

4と9が特に忌み嫌うべきものだとするならば、カレンダーの4月と9月はどうするのだろう。4日と9日は空白に塗りつぶすのだろうか。時計の4時は? 9時は? 序数の途中を抜こうなんて考えるのがそもそも無茶な話である。4番目を抜いたら5が新しい4番目の数になるだけなのだから。

興味深いのは、4番と9番を抜いたことによってかえってその番号の存在が気にかかるようになることだ。1、2、3、5、6、とならんだ数字を見たら誰だって「あ、4がない」「どうして4だけ抜いてあるのだろう」と4ばかりに注意が向いてしまうに決っている。きれいに並んだ歯の中で1本か2本だけ歯が抜けていたらそこに目が行くのと同じことである。

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私はクリスチャンであるし、人知を越えたものがあることを認めるのにやぶさかではない。数というものが何ともいえない神秘的なものを含んでいると思いたくなる気持ちも分かる。ただ、私は例の霊感商法が大嫌いだから、こんな話をしているのである。不幸な目にあって弱っている人に近付き、理屈の通らぬ話を持ち出してわけのわからんものを売りつける商売を私はいやらしいと感じる。そして、4と9の数字を避けようとする気持ちは、霊感商法が成り立つ土壌を深いところで育てているように思うのである。「そんなことはないと思うけれど、でももしかしたら…」霊感商法は人のそういう弱味につけこんでくるのではなかろうか。

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コンピュータを使う人なら、コンピュータがなんのくったくもなく数を扱っているのを知っているはず。コンピュータはある特定のビットパターンを忌み嫌ったりはしない。第一、ある特定のビットパターンもコード体系によって意味がまったく変わってしまうではないか。04 も 34 も 8253 も 8E6C も4を表すと言ってよい。この他にも4を表すビットパターンはたくさんある。4と9を怖がっていてはとうていプログラムなど組めるものではない。

ラッキー7で元気を出したり末広がりの8を喜ぶのは結構なことだけれど、数字の4や9で不安や不幸を感じたりするのはなんだかとってもつまらない。カウント伯爵のように雷鳴を陽気にとどろかせ、いわれのない不安は、もう笑い飛ばそうぜ。

(Oh!PC、1992年5月15日)