無限大の記憶装置
- Infinite Memory -

夢空間への招待状

結城浩

ある日のこと、私は空想上の秋葉原に一人で出かけた。私はあちこちの店を冷やかしながら人の波をすりぬけ、びっしりと並んだパーツボックスに入った宝石みたいなダイオードをながめつつ、迷路のような露地を巡り歩いていた。

気がつくとまわりに人は誰もいず、私は一人で小さなパーツ屋の主人と話しこんでいた。年齢不詳の老人である。

「これが何だかわかるかね」主人は私に5センチ角のチップを見せてくれた。セラミックのような不思議な光沢を持ったグレーのチップである。表面には黒い字で「∞」というマークが刻印されている。手触りはつるりとしている。わからない、と私は答えた。

「新しい記憶装置じゃよ。いわば拡張メモリじゃな」主人はにやりと笑う。チップにしては、足が出てないのが変じゃないか、と私は尋ねた。

「CPUとは電波でデータ交換するから、足は不要なんじゃ」と主人は答えた。私はちょっと首をかしげる。最近はこんなメモリが出ているのか。新しいメモリだとすると、容量はいくらだろう。1チップで何メガビット記憶できるのか私は尋ねた。

「その∞のマークに気付かなかったみたいじゃな。容量は無限大じゃよ、無限大。このチップは無限大の容量を持つメモリなんじゃ」

 * * *

そんなばかな。有限の大きさを持つものの中に無限の情報を詰め込むことができるわけがない。私がそう主張すると、老人はこう答えた。

「あんたの言う通りじゃ。無限大の情報を正確に誤差0で扱えるわけじゃあない。記憶している情報が少ないうちは誤差が少ない。このチップの中にデータを送り込んでいくと、記憶されている情報は少しづつ鮮明さを失っていく。まるで薄いヴェールを一枚一枚重ねていくようにな。けれども受け入れられるデータ量には限界はない」

「記憶ってそういうもんじゃないかね。覚えた直後ははっきりと細部まで覚えている。けれど時間が過ぎ、他のことを覚えていくと、昔のことは少しづつ印象が薄れていく。けれどもこれ以上覚えられないなんていう限界があるわけじゃない。このチップは本当の記憶装置なんじゃ」

 * * *

いったいそのメモリは何ビット幅なのか、アドレスはどうなっているのか。私は混乱しながら主人に尋ねた。

「アドレス? アドレスってなんじゃ? データを読み書きする場所を示すもののことかな? あんた、何かを記憶するとき、自分の頭のココに記憶したとかアソコに記憶したとか意識するかね? しないじゃろう。 このチップもそうじゃ。入力された情報はチップ全体に影響を及ぼす。いわばどんな情報もチップ全体が少しづつ分担して記憶しているんじゃ。じゃから、このチップの端を少し削り取っても動作に対した支障はない。ただ反応時間がちょっと長くなったり、昔の記憶が一部不鮮明になったりすることにはなるが。いいかね、このチップは本当の記憶装置なんじゃよ」

 * * *

そんな不確実な、不安定なメモリは役に立たないんじゃないか。私はその∞マークのついたチップを主人に返しながらそう尋ねた。

「とんでもない。このメモリの応用分野もまた無限と言ってもいいくらいじゃ。画像データの認識、膨大な文献データの検索、経験を必要とするスーパー・エキスパート・システムにはこのチップが不可欠なんじゃ。特に複雑すぎてプログラムが書けないような分野にはこのチップが最適じゃな。関係があるもの、似ているものを見つけ出すのはこのチップがやってくれるわけじゃから」

私は不思議な気持ちのまま、店を去り、帰路についた。すっかりあたりは暗くなっていた。

 * * *

あれから何度も秋葉原に出かけたけれど、あの店はまだ見つかっていない。足がなく、アドレスもなく、記憶容量が無限大のメモリなんてどんな風に使うのか、もっと詳しく尋ねたかったのに、残念である。

(Oh!PC、1992年2月30日)