第1巻 霊的な人生に益となる考え

キリストにならいて

トマス・ア・ケンピス

目次

第1章 キリストにならい、地上のすべてのむなしいことを軽んじること

「私に従う者は、暗闇の中を歩くことはない」と主は言われました(ヨハネ8:12)。 このキリストの言葉は、 キリストの人生と人格にならいなさいという、私たちへのアドバイスです。 もしも私たちが、本当の意味で目を覚まし、 心のすべての盲目から自由になりたいと願うならば、ということですが。 ですから、私たちは、主たる努力を、イエスキリストの人生を学ぶことに向けましょう。

キリストの教えは、聖徒のすべての助言よりも素晴らしく、 キリストの霊を持つものは隠れたマナを見つけ出すでしょう。 福音をしょっちゅう聞いていながら、心にとめない人がたくさんいます。 それはキリストの霊を持たないためです。 キリストの言葉を十分に理解したいと願う人は誰でも、 自分の全生涯をキリストの生涯に一致させようとしなければなりません。

もし、あなたにへりくだりの心がなくて三位一体の神を悲しませるとしたら、 三位一体についての学識深い議論をすることが、 あなたにとってどんな益があるでしょうか。 人間を聖なる存在や正しい存在にしてくれるのは学問ではありません。 そうではなく、善い人生が、神に喜ばれるのです。 私は、悔い改めをうまく定義できることよりも、 悔い改めの心を持つことを望みます。 聖書のすべてを知り、すべての哲学者の原理を知っていたとしても、 神の恵みと愛なしで生きるとしたら、どんな益があるでしょうか。 空しい、空しい、いっさいは空しい。 空しくないのは、ただ、神を愛し、神に仕えることだけです。

最も大いなる知恵――それは この世をすべて捨て去り、天の御国を求めることです。 朽ち果てる富を求め、朽ち果てる富を頼みにするのは空しい。 賞賛を求め、驕り高ぶるのは空しい。 肉的な欲望を追い求めるのは空しい、 やがて来る時に厳しい罰を招く物事を望むのも空しい。 長く生きることばかりを求め、善く生きることを気にかけないのは空しい。 現在のみを気にかけ、やがてやって来ることを予見しないのは空しい。 あっというまに過ぎ去るものを愛し、 永遠の喜びがどこにあるのかを考えないのも空しい。

次の箴言を何度も思い出しなさい。 「目は見ることによって満足しないし、 耳は聞くことによって満たされはしない」(Eccles. 1:8) 目に見えるものを愛しないよう努め、、 目に見えないものに心を向けるよう努めなさい。 なぜなら、自分自身の肉体的な欲望に従う者は、 良心にしみをつけ、神の恵みを壊してしまうからです。

第2章 自分に対してへりくだった考えを持つこと

人がみな知識を求めるのは自然なことです。 しかし、神を恐れない知識に何のよいことがあるでしょう。 星の運行を研究して自分の魂を無視している誇り高い知識人よりも、 へりくだって神に仕えている田舎者の方がずっとよいのです。 自分自身をよく知っている人は、 自分の目にすら取るに足りぬ者と映るようになり、 人々から誉められて喜んだりはしません。

私がこの世のことをすべて知っていたとしても、愛がなかったら、 私の行ないを裁く神の前で、その知識が何の益になるでしょう。

知識を異常なほどに望まないようにしなさい。 そのような状態は心をたいそういらだたせ、惑わせるからです。 知識人は、学問を積んだ者のように見えるのを好み、賢い人だと呼ばれるのが好きです。 知っていても、魂のためにまったく役に立たない知識はたくさんあります。 そして健全な魂に益してくれる知識以外に心を向ける人は、たいへん愚かです。

言葉が多くても、魂は満たされません。 しかし、健全な生活は心を安らかにし、 汚れのない良心は神に対する大きな信頼の念を起こしてくれます。

あなたが多くのことを知り、よりよく理解すればするほど、 あなたの生活が同じくらいに聖なるものにならなければ、 あなたの裁きはそれだけ厳しくなります。 ですから、あなたの知識や技術のゆえに誇ってはいけません。 誇るのではなく、あなたに与えられた能力のゆえに恐れなさい。 もしあなたが、多くのことを知り、多くのことを十分に理解していると思うなら、 それと同時に、あなたはたくさんのことを知らないのだということを自覚しなさい。 知恵を誇らず、自分の無知を認めなさい。 あなたよりも良く学び、あなたよりも勝っている人がたくさんいるというのに、 なぜ、自分自身の方を他人よりも優れた者だと思うのですか。

もしもあなたが何か価値のあることを学び、理解したいと望むなら、 自分が無名であることを愛し、軽視されることを愛しなさい。 自分自身を知り、とるに足りないものだと考えることは最善でかつ完全な知恵です。 自分をとるに足りないものだと考えること、 常に他の人のことをよく考えることが最善であり、もっとも完全な知恵です。 もしもあなたが他の人の罪を目の当たりにしたり、 他の人が重大な罪をおかすのを見たとしても、 自分はその人よりも良い人間だと考えてはいけません。 というのは、あなたがいい状態にいつまでいることができるのか、 あなたは知らないからです。 人はみな、弱くもろいものです。 しかし、あなた自身が一番弱くてもろいものだと認めなさい。

第3章 真理の知識

象徴やはかない言葉ではなく、真理そのものが本当の姿を教えてくれる人は幸いです。 私たち自身の判断や感覚は、私たちをあざむくことがよくあり、私たちは真理のうちのほとんどを見ていないのです。

隠されていること、見えないことについての議論が何の益になるでしょう。 私たちがそれを知らないからといって、終末の裁きの時に責められることはないのに。 自分の益となり必要となることを無視して、 自分に無関係なことや有害なことに心を向けるのは、 たいへんに愚かなことです。

私たちには目がついているのに、見えていません。

それなら、私たちは哲学上の疑問にどのように対処したらよいのでしょうか。 永遠の言葉が語りかけてくれるような人は、 理論を使わなくても理解することができます。 この言葉となられた方からすべてが生じ、 もろもろのものは彼について語るのです。 そして初めであられる方が私たちに語ってくださるのです。 この言葉なしでは、 誰も正しく理解したり判断したりすることはできません。 He to whom it becomes everything, who traces all things to it and who sees all things in it, may ease his heart and remain at peace with God.

ああ、神さま、あなたは真理の方、 私をあなたと一つにし、永遠の愛のうちにおいてください。 私は聞いたり読んだりするたくさんのことで心を悩ませています。 しかし、あなたのうちにこそ、私が求めているもののすべてがあります。 知識のある者の口を閉ざし、 すべての被造物をあなたの御前で静まらせてください。 ただ、あなただけが私にお語りください。

心を鎮め、心を単純にすればするほど、 崇高なものごとを易しく理解することができます。 なぜならそのような人は、理解のための光を天から受けるからです。 純粋で、単純で、堅固な精神を持つ人は、 多くの労苦で悩むことはありません。 その人はすべてのことを神の栄光のために行なうからです。 その人は内なる平和を楽しんでいますから、 何に対しても自己中心な目的を求めたりしません。 まったくのところ、コントロールされていない心の欲望ほど、 問題と心の悩みを引き起こすものはありません。

善良で信仰深い人は、自分がしなければいけないことを心のうちで整えます。 それは邪悪な性向から生じるむら気に従ってではなく、 正しい理性の命令に従ってです。 自分を自分の主人にしようと試みる人ほど、 もがき苦しむことを余儀なくされるのではありませんか。 ですから、次のことを私たちの目的とすべきです。 自己に打ち勝つこと、毎日もっと強くなること、そして徳において前進することです。

この人生においては、どのような完全なものも、その中に不完全さを含んでいます。 私たちの知識も必ずいくらかの暗闇を含んでいます。 自分自身をへりくだって考えることのほうが、 深い知識を求めることよりも、確実に神へ至る道となります。 学ぶことが悪いのではありませんし、 また知識もそうです。 それはそれ自身としては良いものとして神に定められています。 しかしどんなときでも、汚れのない良心と、聖なる人生のほうが良いのです。 たくさんの人が、 より良く生きることよりも、知識を求めようとしたために、 過ちをおかしたり、何もなしとげられなかったりする場合が多くあります。

もしも人々が、問題を議論するときと同じように注意深く 悪徳を根こそぎ引き抜いて、美徳を植え付けるならば、 この世にこれほど悪いことやスキャンダルはなく、 宗教的な組織がこれほどだらしないことはないでしょうに。 はっきり言いますが、私たちが裁きの時に問われるのは、 これまでどんなものを読んできたか、ではなく、 これまでどんなことをやってきたか、なのです。 どれほどうまく語ってきたか、ではなく、 どれほど善く生きてきたか、が問われるのです。

教えてくれますか。 あなたがよく知っている、 以前一緒にいて学識を誇っていた有名な師や先生が、 現在どこにいるかを。 他の師や先生がすでにその地位を取って代わり、 自分の前にその地位にいた人のことなど思い出しもしません。 生きている間、かれらはひとかどの人物のように見えました。 しかし今となっては思い出されることはほとんどありません。 この世の栄光は何とすばやく過ぎ去ることでしょう! 彼らの生活が彼らの学識と同じように進歩すれば、 彼らの研究や読書は価値あるものとなったでしょうに。

世俗的なむなしい知識を持ち、神に仕えることを大切にしなかったために、 いかに多くの人が滅びることでしょう。 彼らは自分のうぬぼれのためにむなしいものとなったのです。 それは彼らがへりくだらずに、偉大なものになろうと願ったからです。

本当に偉大な人というのは、大いなる愛を持っている人です。 本当に偉大な人というのは、自分自身の目には取るに足りない小さな者であり、 最高の栄誉とは無縁の人です。 本当に賢明な人というのは、すべての世俗的なことをおろかなこととみなし、 キリストを得るような人です。 神の意志をなし、自分自身の意志を捨てる人が、本当に学識のある人なのです。

第4章 慎重に行動すること

心の衝動や思いつきに従ってはいけません。 そうではなく、物事は神の御心の光に照らして、注意深くまた忍耐強く考えなさい。 悲しいことに、私たちはとても弱いため、 あることを簡単に信じ込み、他の人を善く言わずに、 悪口を言ってしまいがちです。 しかし、完全な人間というのは、 噂を広める人のことを簡単には信じません。 なぜなら、人間は弱くもろいので悪に陥りやすく、 またその弱さは、語る言葉に現れることを知っているからです。

性急に行動したり、 一人の人の意見に盲目的に従わないこと、 人々が言うことをすべて信じないこと、 耳にした噂話を広めたりしないことは、 大いなる知恵です。

賢明で良心的な人に助言を求めなさい。 あなたの考えに従う人からではなく、 あなたよりもよい人からアドバイスを受けなさい。

よい人生は、人を賢くし、人を神へ向かわせます。 よい人生は、多くのことについて人に経験を積ませます。 へりくだればへりくだるほど、人は神に対してもっと従順になり、 あらゆることに関してもっと賢明になり、 魂はもっと平安になるでしょう。

第5章 聖書を読むこと

真理こそ、巧みな言葉ではなく真理こそ、 私たちが聖書を読むときに探し求めるべきものです。 聖書のすべての個所は、それが書かれた精神を持って読まなければなりません。 聖書の中から、私たちは洗練された言い回しを求めるのではなく、 益を求めるべきだからです。

ですから、私たちは、深淵で難しい本を読むのと同じく、 シンプルでデボーショナルな本も読むべきです。 私たちは、著者の学識が浅いとか深いとかいった 権威に左右されることがあってはなりません。 純粋な真実を愛しているかどうかで読むべきかを判断しなさい。 誰が語っているかを尋ねたりせず、何を語っているかに注目しなさい。 人は死にます。 しかし、神の真実は永遠に残ります。 人について顧慮することなく、 神は私たちにさまざまな方法を通して語られるのです。

おうおうにして、私たちが持っている好奇心は聖書を読む際に妨げとなります。 それは、単純に読んで通り過ぎるべき個所を理解しようとしたり、 議論したりしようと私たちが望むときです。

ですから、聖書を読んで益を得ようと望むなら、 へりくだって、単純に、信仰を持って読みなさい。 学識を積むという名誉を求める気持ちで読んではいけません。 聖徒の言葉について自由に尋ね、注意深く聞きなさい。 先人たちが語った厳しい言葉をいやがってはいけません。 それらの言葉は目的もなく語られたわけではないからです。

第6章 制御されていない感情

人は何かをあまりにも欲しがると、すぐに平安を失い始めます。 傲慢で貪欲な人は決して安らぎを得ることがありません。 一方、心貧しくへりくだっている人は平和の世界に生きるものです。 抑制を効かせていない人はすぐに誘惑され、小さくてささいな悪に打ち負かされてしまいます。 その人の霊は弱く、いくらか世俗的(肉的)で、感覚的な物事に向く傾向があります。 世俗的な欲望を控えることはほとんどできません。 ですから、欲望を手放すことは彼を悲しませます。 そのような人はとがめだてされるとすぐに腹を立てます。 しかし、かれが欲望を満足させると、 自分の熱情に従ったことのために良心の呵責が彼をうちのめし、 求めていた平安へと導かれることはありません。

だから、心の真の平安というのは、 熱情に抵抗したところに見出されるのであって、 熱情を満足させるところに見出されるのではありません。 肉的な人、空しい魅力に魅せられている人には、平安はありません。 熱心で霊的な人にのみ平安があるのです。

第7章 偽りの希望と傲慢から自由になる

人間たちに、あるいは被造物に信頼をおく者はむなしい。

イエスキリストの愛のために、他の人々に仕えたり、 この世で貧しいと見られたりすることを恥だと思ってはいけません。 自分のことを何でも自分でやろうとせずに、神に信頼を置きなさい。 あなたの力の中にあることを行いなさい。 そうすれば神はあなたのよい意志を助けてくださいます。 自分の知識や、いかなる人の知恵に対しても信頼を置いてはいけません。 むしろ、へりくだる人を助け、おごっている人をへりくだらせる神の恵みに信頼を置きなさい。

もしあなたに富があっても、それを誇りに思ってはいけません。 また有力な友人がいても、その友人を誇りに思ってはいけません。 そうではなくて、すべてのものを与え、 何よりも自分自身を与えることを望んでおられる神に栄光を帰しなさい。 人間の強さや肉体的な美しさ、 ちょっとした病気で傷つけられ壊されてしまうような特質を誇ってはいけません。 あなたの才能や能力を誇ってはいけません。 あなたが持っているすべての賜物を与えてくださった神を悲しませないようにするためです。

他の人に比べて自分がすぐれていると考えてはいけません。 人のうちに何があるかをご存知の神の前で、 より悪い評価を受けないためです。 自分の良い行いを誇ってはいけません。 神の裁きは人の裁きとは異なっていて、 人を喜ばせるものが、神を悲しませるのはよくあることだからです。 あなたの中によい点があるなら、他の人の中にもっとよい点を見出しなさい。 そうすればあなたはへりくだったままでいられるからです。 他の人みんなと比較して自分は劣っていると評価することは害にはなりません。 しかし、たとえ一人に対しても、自分の方がすぐれていると考えるのはとても有害です。 へりくだった人は、平和的に生活し続けます。 それに対して、おごった人の心の中には妬みがあり、いつも怒りがあります。

第8章 必要以上に親しくしないこと

すべての人に対して心を開くのはやめなさい。 相談をするときには賢明で神をおそれる人だけにしなさい。 若い人や見知らぬ人と付き合うのはやめなさい。 お金持ちにへつらってはいけません。 偉い人との社交を好むのはよしなさい。 へりくだっている人、単純な人、信仰の篤い人、穏やかな人と付き合いなさい。 その人たちと徳を高められるような会話をしなさい。 いかなる女性とも親しい関係にならないようにし、 すべてのよい女性を神に薦めなさい。 神と主の天使とのみ親しく交わるようにし、 人から注目をあびることを避けなさい。

私たちはすべての人を愛さなければなりません。 しかし、すべての人と親しく交わるのは得策ではありません。 その人をあまり知らない人たちの間では評判が良いけれど、 その人をよく知っている人たちからは大した評価を得ていないということが、時にあるものです。 自分が親しくして相手を喜ばせていると思っても、 相手のほうは私たちの欠点に気がついて次第に不快になるということがよくあります。

第9章 従順と服従

従う、というのはたいへん素晴らしいことです。 偉大な方のもとで生き、 自分自身の主とならないのはたいへん素晴らしいことです。 というのは、命じることよりは命令を受けるほうがずっと安全だからです。 多くの人は愛からではなくその必要があるから従います。 そのような態度では、 ちょっとした口実によって不満や落胆につながります。 彼らは、 神の愛から心から従うことなくしては、 決して心の平安を得ることがありません。

あなたがどこへ行こうとも、 へりくだって権威あるルールに従うことなしには安息は得られません。 変化が起こればとか、別の場所にいけば幸せになれるという夢は、 多くの人を惑わして来ました。

はっきり言っておきますが、 すべての人が自分の喜ぶように物事を行いたいと願い、 またそれに賛成する人に魅せられています。 しかしながら、もし神が私たちの間におられるなら、 平和という祝福を得るために、 自分の意見を放棄することも時には必要です。

さらに、 すべての完全な知識を持つほど賢明な人間などいるでしょうか。 自分自身の意見を信用しすぎないようにし、 喜んで他の人の意見に耳を傾けなさい。 もしも、たとえあなたの意見が良いとしても、 神の愛のゆえに他の人の意見も受け入れるなら、 あなたはさらなるメリットを得るでしょう。 というのは、アドバイスに耳を傾けてそれを受け入れるほうが、 アドバイスを与えることよりも安全である、ということをよく聞くからです。 自分の意見が良いとしても、 正当な理由や機会があるのに他の人の意見を拒否するというのは、 プライドや頑固さをあらわすシグナルである、 ということもありえます。

第10章 無駄なおしゃべりを避けること

人々のゴシップは可能な限り避けなさい。 なぜなら、人は虚栄によってすぐに誘惑され捕えられてしまうので、 世俗的な事項に関する議論は、誠実なものであったにせよ、 私たちの心を大いに乱すことになるからです。

私は何度も、自己の平和を保ち人々と関わりを持たないで済めばよかったのに、と思います。 まったく、どうして私たちは、 会話をし無駄話をするのでしょうか。 良心を悩ますことなく会話を終えるということはめったにないというのに。 私たちは、互いの会話から元気を得、 さまざまな考えに悩まされている気持ちから楽になりたいと思っているのです。 そのようなわけで、 私たちは、とても好む物事や、深く嫌っている物事について語ったり考えたりすることを非常に好むのです。 しかし、悲しいことに、私たちは無目的でいたずらに語ることがよくあります。 この外的な喜びは、内的で聖なる慰めを事実上閉ざしてしまうからです。

ですから、無駄に時間を過ごさないように注意して見張り、祈らなければなりません。

正しくて適切な語るべきときがきたならば、 人の徳を高めるようなことがらを語りなさい。

悪い習慣や霊的な進歩に対する無関心は、 舌からの防御を取り除いてしまう効果があります。 これに対して霊的なことがらに関する熱心な会話は、 霊的な進歩に大いなる助けとなります。 同じ心と霊を持った人々が神にあって集っているときには特にそうです。

第11章 平安を得、完全を切望すること

もしも、 他人の言行に対して、私たちが関わりを持たないなら、 私たちはもっと平安を享受することになるはずです。 なぜなら、他人の言行というのは私たちとは無関係だからです。 自分以外の事柄にかかずらっている人、 変わった気晴らしばかり求める人、 そして内的な思索をほとんど行わないような人が、 どうやったら平安のうちに長生きをすることができるでしょうか。

シンプルな心を持つ者は幸いです。 その人は平安をたっぷりと受けるからです。

なぜ、聖徒たちの中にはきわめて完全で、きわめて思索深い人たちがいるのでしょう? なぜなら、彼らは自分の内なる、この世の欲望を徹底的に抑制しようとしたからです。 そしてそのため、彼らは心から自分自身を神に添わせ、 自分の最内奥の考えに集中することが自由にできたのです。

私たちは、自分勝手で気まぐれな空想にあまりにも心奪われてしまい、 過ぎ去る物事に夢中になりすぎています。 たった一つの悪徳に対しても完全な勝利をすることはまれであり、 日々自分をよりよいものにしたいと切望することはありません。 ですから、私たちは冷めており無頓着なままなのです。 もしも私たちが自分の肉体を完全に抑制し、 気をそらすものが私たちの心に入り込むことを許さないなら、 私たちは聖なる物事を識別し、 天のご計画のいくらかを体験することができるでしょうに。

最大の障害は――実際それは唯一の障害でもあるのですが―― 私たちが欲情や情欲から解放されていないということであり、 聖徒の完全な道に従おうとしないということです。 このため、ちょっとした困難に遭うと、私たちは簡単に落胆してしまい、 人間的な慰めに向かうのです。 しかし、もしも私たちが、戦闘中の勇敢な人のように耐えるなら、 天からの主の助けが私たちを確かに支えてくださるでしょう。 というのは勝利の戦いの機会を私たちに与えてくださる神は、 神の恵みに信頼を置き、carry on する人々をすぐに助けてくださるからです。

もしも私たちが自分の信仰生活における進歩を、 外面的な観察のみに頼りとするなら、 私たちの信仰はすぐさま終わりになってしまうでしょう。 ですから、情欲から解放されるために根元に斧をあて、 そうして心の平安を得ようではありませんか。

もしも私たちが、毎年たった1個の悪徳を根こそぎにできるなら、 私たちはまもなく完全になるでしょうに。 しかし、実際にはその正反対であることが多いものです―― 私たちは、信仰の歩みを何年も送ってきた現在よりも、 回心当初の熱心だった頃の方が、より善良で純粋だったように感じます。 私たちの熱心さと進歩は日々増し加わっていくべきです。 にもかかわらず、もしもはじめの熱心さの一部分でも保つことができるなら、 今やそれで注目に値すると見なされるのです。

もしも私たちが最初のころ少しだけ自分に対して厳しくしたなら、 後になってすべてのことが簡単に楽しくできたでしょうに。 昔からの習慣を打ち破ることは困難です。 しかし、自分の意志に反することをするのはさらに困難です。

もしもあなたが小さくてささいな事柄に打ち勝つことができないなら、 さらに困難なことにどうやったら打ち勝つことができますか。 はじめの誘惑に抵抗しなさい。 そして悪い習慣から足を洗いなさい。さもないと、恐らく少しずつ、 もっと悪い習慣へと導かれます。

もしも、良い人生がどんな平安をあなたにもたらすか、 そしてどんな喜びを他の人にもたらすかについて、あなたが本当に考えさえするなら、 あなたはもっと自分の霊的な進歩について心にかけるようになる、と私は思います。

第12章 逆境の価値

時として試練や困難に合うことは、私たちにとって良いことです。 なぜならそれによって、私たちは見習い中の身であり、 この世のいかなるものにも希望をおくべきではないことを忘れずに済むからです。 親切に、よかれと思ってしているにもかかわらず人々から誤解されたり、 反発に見舞われたりするのも良いことです。 これらのことは、私たちがへりくだり、むなしい栄光から自らを守るのに役立つからです。 表面上は誰からも認められない時、誰からもよく思われない時、 そのような時こそ私たちは心をご覧になられる神を一層求めるようになります。 ですから、人は人間からの慰めを必要としないですむように、神のなかに堅く根を張るべきです。

善良な人が邪悪な思索によってひどく苦しめられ、 誘惑され、悩まされるとき、その人は自分に何よりも必要なのは神であり、 この方なしには何の良いことも出来ないのだとはっきりと悟ります。 そのような人は自らのみじめさと苦しみに悲しんで、嘆き、祈ります。 これ以上生きることに疲れを覚え、消えてなくなりキリストと 共にいられるようにと死を願うようになります。 そのとき、完璧な安全と完全な平安は、 地上には見いだせないのだと、彼ははっきりと理解します。

第13章 誘惑に抵抗すること

私たちがこの世に生きている限り、苦しみや誘惑から逃れることはできません。 だからヨブ記にも次のように書かれているのです。 「地上における人間の生活は戦争である。」(Job 7:1) ですから、すべての人は、誘惑を防ぐ備えをし、 祈りによって注意を払っていなければならないのです。 それは、決して眠らず、むさぼり食らうことができそうな人を求めて歩き回っている悪魔にだまされないようにするためです。 どんな人間であっても、完全ではなく聖なるものでもないので、誘惑されるときがあります。 人は誘惑から完全に自由でいることは不可能なのです。

しかし、誘惑は問題を引き起こし、厳しいものですが、 人にとって有益な場合もあります。 というのは誘惑されたとき、人はへりくだり、きよめられ、教えられるからです。 聖徒はすべて多くの誘惑と試練を通り、そこから益を得てきました。 しかし一方誘惑に抵抗できなかった人々は堕落するようになり、 滅びていきました。 誘惑や試練がやってこないような聖なる状態や、隠れた場所というものはありません。 生きている限り人間は誘惑から安全でいるわけにはいきません。 なぜなら、誘惑は私たちの内側から出てくるからです。 私たちは罪のうちに生まれた者なのです。 誘惑や試練を一つ越したなら次がやってきます。 私たちにはいつも何らかの苦しみがあるでしょう。 なぜなら私たちはもともとの祝福を受けた状態を失っているからです。

誘惑から逃れようとする人はたくさんいますが、 結局いっそう深みにはまるだけです。 私たちは単純に逃げることで誘惑に打ち勝つことはできません。 忍耐と真の謙遜によって、私たちは敵よりも強くなるのです。 誘惑を表面的にだけ避け、根こそぎにしない人は ほとんど進歩することがありません。 実際、誘惑は以前よりも強力になってすぐに戻ってくるのです。

少しずつ少しずつ、忍耐と長い苦しみの中で、 あなたは誘惑を乗り越えていくでしょう。 それは、厳しさや自分勝手で性急な方法によってではなく、 神の助けによってです。 誘惑されたときにはアドバイスを受けなさい。 それから、誘惑された人に対して厳しくあたってはいけません。 誘惑された人に対しては慰めを与えなさい。 あなた自身が誘惑された場合に慰めてほしいと願うのと同じように。

すべての誘惑は、 迷いの中にある心と、神に対する信頼の薄さからはじまります。 ちょうど、舵のない船が波によってあちらこちらに揺さぶられるように、 軽率で優柔不断な人は、たくさんの方法で誘惑を受けることになります。 炎は鉄を鍛え、誘惑は正義を鍛えます。 私たちは自分が何に耐えられるかどうかを知らず、 誘惑が私たちの真の姿を明らかにすることがしばしばあります。

何よりも、誘惑のはじまりに特に注意しなければなりません。 というのは、敵が心に入ってくるところを拒否し、 敵がノックするときに垣根越しに会わねばならないなら、 敵をやっつけることは簡単だからです。

ある人が、たいへん適切にこう言いました。 「最初に抵抗せよ。 対処法はたいそう遅れてやって来る。 ずっと後に対処法がやってきたときには、 悪は力をすでに得てしまっている」 最初に、単なる考えが心に浮かびます。 それから、強い想像がやってきて、 次に快楽、邪悪な喜び、そして悪に対する同意が続きます。 このようにして、その人は、最初に抵抗しなかったために、 サタンは完全に心に入り込んでしまうのです。 そして人が抵抗を遅らせれば遅らせるほど、 毎日その人は弱っていきますが、 その人に対する敵の強さは増大していくのです。

回心の初期に大きな誘惑に直面する人たちもいれば、 終わりごろに直面する人たちもいます。 一方で、人生全体を通じてほぼ絶え間なく誘惑にさらされる人たちもいます。 さらに、誘惑されても軽くすむ人たちもいます。 それは各人の益と状況を考慮にいれ、 神の選民の救いのために全てのことを備えられる神の知恵と正義によるものです。

ですから、誘惑されても落胆すべきではなく、 神に対して、適切な助けを与えてくださるようにとさらに熱心に祈るべきです。 というのは、パウロの言葉によれば、 神は我々が耐えることのできる誘惑を問題になさるからです。(He will make issue with temptation that we may be able to bear it.) どんな試みと誘惑の中にあっても、神さまの御手の中で魂を謙遜にしましょう。 なぜなら、神さまは霊的に謙遜な者を救い、高くひきあげてくださるからです。

誘惑と試練の中で、人の進歩は計ることができます。 誘惑と試練の中でこそ、価と徳を得る機会がさらに明らかになるからです。 (In temptations and trials the progress of a man is measured; in them opportunity for merit and virtue is made more manifest.)

誘惑に悩むことがなかったら、 熱心で信仰深くなるということは難しくなります。 しかし、逆境の時にも忍耐強くがんばれば、 大きな進歩をする望みがあるでしょう。

大きな誘惑から守られている人であっても、 しばしば小さな誘惑に負けてしまうことがあります。 それは、小さな試練に対する自分の弱さによって謙遜になり、 自分は大きな試練に対する強さを持っているのだ、 などと思い込むことがないようにするためです。

第14章 早まった判断を避けること

あなたの注意を自分自身に向け、他人の行いを裁かないよう気をつけなさい。 なぜなら、他人を裁く時、人は空しい働きをするのであり、間違いを犯すことも多く、 またいともたやすく罪を犯すものだからです。 一方で、自分自身を裁き、吟味する人は、いつでも有益なことをしています。

私たちは物事を自分が願うように判断しがちなものです。 なぜなら個人的な感情のなかで正しい物の見方は簡単に失われてしまうからです。

もし神が私たちの願いの唯一の対象であるなら、 自分の意見に反対されたからといって簡単に平安を失うはずはありません。 しかし内側に何かが潜み、あるいは何かが外側から起こり、 私たちをそれと一緒に引き寄せてしまうことがよくあるのです。

気づかないままに、自分が行うことのなかに自らを求める人が大勢います。 自分の願いや好みの通りに物事が進む時に安心を覚えることさえあるようです。 しかし自分の願うようにならないと、まもなく平安を失い悲しみに暮れます。 感情や意見の違いは周囲の人々を分裂させます。宗教的で敬虔な人たちであってもです。

古い習慣はなかなか直らないものです。 そして誰しも、見えないところまでは導かれたがらないものです。

もしあなたがイエス・キリストへの従順の美徳よりも、 自分の知性や勤勉さに依存するなら、賢明な人になることはまずないでしょう。 なるとしても、それはゆっくりとしか起きません。 神は私たちが完全にご自身に従うようになることを願っておられ、 熱心な愛を通してすべての人間の知恵を越えることを願っておられます。

第15章 愛のうちになされる行い

この世のどんなもののためであっても、 また誰を愛するためであっても、絶対に悪を行なってはいけません。 しかし、困っている人のためには、良い行ないを敢えてそのままにしておいたり、 さらに良いものと取り替えたりするほうがよいこともあるでしょう。 これは良い行ないを切り捨てているわけではなく、 むしろ良い行ないをさらに改善するためだからです。 (For one who is in need, however, a good work may at times be purposely left undone or changed for a better one. This is not the omission of a good deed but rather its improvement.)

愛がなければ、外面的な行ないには何の価値もありません。 しかし愛をもってなされたことは、 たとえそれがどんなに小さくて些細なことであっても完全に実を結びます。 なぜなら、神は行ないそのものよりも、 行なったときの愛を測られるからです。

たくさんのことを成し遂げるのは、たくさん愛する人です。 たくさんのことを成し遂げるのは、一つのことをうまく行なう人です。 うまく行なう人というのは、 自分自身の利益ではなく皆の益のために仕える人です。

さて、愛のように見える事柄が、実は官能にしか過ぎないことはよくあります。 自分の性癖や願望、報酬への期待、私利私欲が、往々にしてその動機になって いるからです。反対に、真実で完全な愛を持つ人は、 何ものにも自己を求めようとしません。ただ全てのことを神のご栄光のゆえに 追求します。さらに、そのような人は誰のこともうらやみません。 なぜなら、その人は個人的な愉しみを願うのでく、また自分のなかに喜びを 見いだそうというのでもなく、ただ何よりも、神のさらなるご栄光を 願うからです。彼は人にはどんな良いものも帰しません。 ただ全てを完全に神に帰します。 泉から流れ出るように、全てのことがこのお方から発し、全ての聖徒たちは このお方のもとで喜び憩うのです。 (以下のベンハム訳を参考にしましたが、かなり苦しいかも。後から頭冷やしてもう少し 考えます。) He ascribeth good to none save to God only, the Fountain whence all good proceedeth, and the End, the Peace, the joy of all Saints.

もし人が真の愛の輝きを持たないのなら、地上の全てのものは まったくむなしいと、確かに感じることでしょう。

第16章 他者の欠点を負うこと

神が他のことを特に命じるのでない限り、 自分や他者のうちにみられる修正できないものは、 何であれ忍耐強く負うべきです。 ですから、たとえば自分の忍耐を試し、 あなた自身を吟味するには、その方が良いのだろうと考えなさい。 というのは、そのような忍耐や試練なしには、 あなたの長所に価値はないからです。 とはいえ、そのような困難のもとでは、 あなたがそれらの欠点を冷静に負えるよう、 神の助けを求めて祈るべきです。

一、二度訓戒を受けた後でも、その人が改心しないのならば、 彼と言い争ってはいけません。 その問題はすべて神に委ね、神の御心と栄誉とが、 神の全ての僕たちの間にさらに現されるようにしなさい。 神は、どうやって悪を善に変えるのかを、よくご存じだからです。 他者の欠点や弱さを、それが何であれ、忍耐強く負うように努めなさい。 なぜならば、あなた自身も、他者が耐えねばならない多くの欠点を持つ身だからです。

もしあなたが、自分が願うような者に自分自身を変えることができないなら、 どうして他人を自分の思いのままに曲げることができるのですか。 私たちは他人が完全であることを求めるくせに、 自分自身の欠点を正すことはできません。 私たちは他人が厳しく矯正されることを望むくせに、 自分自身を矯正しようとはしません。 他人の自由は不愉快に思うくせに、 自分の求めは拒否されたくありません。 他人のことは律法で縛ろうとするくせに、 自分のことは何ものにも縛られたくないのです。 このように、私たちが自分のことを思うように他者の ことを考えることは滅多にないことは明らかです。

もし皆が完璧なら、 神のために他者からどのような苦しみを受けることが出来るでしょうか。 しかし神は、互いの重荷を負うことを学びなさいと私たちに命じられました。 欠点のない人、重荷を持たない人、一人でやっていける人、 十分に賢い人、そのような人はいないのです。 ですから私たちは互いに支え合い、 慰め合い、助け合い、相談し合い、助言し合うべきです。 人の美徳というものは、逆境のなかで一番よく現されます。 逆境は人を弱くするのでなく、 むしろその人の姿を浮き彫りにするからです。

第17章 修道生活

あなたが平和と他者との調和を願うなら、多くのことにおいて自分の意志を 曲げることを学ばなければいけません。 修道院や宗教的な共同体で暮らし、不平を持つことなく そこにとどまり、死ぬまで忠実に耐え抜くことは、容易なことではありません。 そこで良い人生を生き、そこで幸福のうちに終わりの日を迎えることの 出来る人は本当に幸いです。

もしあなたが忍耐をもって完全を追い求めるつもりなら、 自らを巡礼者、地上における追放者とみなすべきです。 もしあなたが敬虔な人になるつもりなら、キリストのために 愚か者と見なされることに満足すべきです。 人は修道衣や剃髪によってはほとんど変えられません。 変えられた人生や完全な禁欲こそが真の敬虔さを生むのです。

己れの魂の救いと神のみを求めない人は、悩みと嘆きしか 見いださないでしょう。そして一番小さき者、すなわち万人の 僕になろうとしない人は、長きにわたって平安を保つことが出来ません。

あなたは仕えるためにやって来たのです。治めるためではありません。 またこのことも理解しなさい。あなたが召されたのは苦しみ、 労するためであり、怠けたり噂話で時間を無駄にするためではないのです。 ここでは、人は炉のなかの金のように試されます。 ここでは、心の底から神の前にへりくだることを願う人でなければ、 とどまることは出来ません。

第18章 聖徒により示されたお手本

本当の完全と宗教の光を持った聖徒たちが残した生きたお手本を考えるときに、 いかにわれわれが無に等しいかわかるものです。 彼らの命に比べると、 ああ、私たちの命はなんなのでしょう? 聖人たちや、キリストの友たる人々は、飢え、乾き、寒さ、裸の中で、仕事場でも疲れていても、 祈りや聖なる瞑想の中でも、迫害と困難の中でも、夜を徹する祈りや断食の中でも、主に仕えました。 使徒、殉教者、懺悔者、修道女、そのほかすべてのキリストの足跡に自ら従った人たち ―― 彼らが苦しんだ試練は、どれだけ多く、過酷なものだったことでしょう。 彼らはとこしえの命を得るために、地上での命を憎みました。

砂漠で人から離れて生きるとはいかに厳しく、 物事にとらわれない生活だったことでしょうか! 彼らが受けた誘惑は、なんと長く重苦しいものだったことでしょう! なんど敵に取り囲まれたことでしょう。 どのよう熱心な祈りがなんどもささげられたことでしょう! 過酷な断食を行ったでしょう! 彼らの精神的な完璧を求める愛と情熱はいかに大いなるものだったでしょうか! 自分たちの悪い習慣や癖をやめるための霊的戦いはいかに勇敢だったことでしょう! 神に対してかれらが示したものはなんと純粋でごまかしのない目的だったでしょう! 昼間は、働き、夜には長い祈りのため時間を費やしました。仕事場においてさえ、 霊のいのりを続けました。時間のすべてを有効に使いました。 神に仕えるためには1時間は短く感じられ、 主と交わる瞑想の中では寝食も忘れるほどでした。

彼らは、すべての豊かさ、威厳、名誉、友人、知人を否定し、捨ててしまいました。 彼らはこの世の何も求めませんでした。 彼らは生きていくために必要なものさえほとんど持たず、 肉体を維持することはたとえそれが必要なときにおいてさえ、 退屈なものとなりました。 地上での生活は貧しかったにもかかわらず、恵みと人徳においては豊かでした。 外面は見捨てられたものでしたが、内面は恵みで満たされ、聖なる慰めがありました。 この世においてはよそ者でしたが、神さまとは親しく、神さまの近しい友となりました。 彼ら自身にとっては、世に捨てられ、ゼロに等しいものでしたが、 神の目から見ると、高価で大切なものと映りました。 彼らは真の謙遜と素朴な従順のなかに生きました。 霊的な人生への道を日々前進し、 神から偉大なる恩寵をいただきつつ、愛と忍耐のなかを歩んだのです。

この人たちは、すべての信仰者にとってのお手本となり、 私たちを完璧へと導く彼らの力は、 不熱心な者が私たちを放縦へと誘惑する力よりもはるかに優れています。

初期のころの聖なる習慣はなんと熱心な事だったでしょう! 祈りへのデボーションや徳を求める競争は大いなるものでした。 彼らの間で花開いた自制心は何とすばらしいものだったことでしょう! 上に立つ人の支配のもとで、なんと素晴らしい尊敬と従順とが万事において見られたことでしょう! 彼らが残した足跡は、彼らが本当に聖く完全な人々であり、 この世と勇敢に戦い、この世に打ち勝ったことを今なお証しています。

今日、罪を犯さず、忍耐強く自分の責務を果たす人は大いなる人と見なされます。 私たちはなんと不熱心であり、怠惰な者でしょう! 私たちは情熱をなんと早く無くし、怠惰な生活に何と早く流されて疲れてしまうことでしょう! このように熱心な先駆者たちのお手本を学んだ私たちは、 まどろむことなく、徳を求め続けなくてなりません。

The Nineteenth Chapter.

                    The Nineteenth Chapter

              The Practices of a Good Religious

THE life of a good religious ought to abound in every virtue so 
that he is interiorly what to others he appears to be. With good 
reason there ought to be much more within than appears on the 
outside, for He who sees within is God, Whom we ought to reverence 
most highly wherever we are and in Whose sight we ought to walk 
pure as the angels.
     Each day we ought to renew our resolutions and arouse 
ourselves to fervor as though it were the first day of our 
religious life. We ought to say: "Help me, O Lord God, in my good 
resolution and in Your holy service. Grant me now, this very day, 
to begin perfectly, for thus far I have done nothing."
     As our intention is, so will be our progress; and he who 
desires perfection must be very diligent. If the strong-willed man 
fails frequently, what of the man who makes up his mind seldom or 
half-heartedly? Many are the ways of failing in our resolutions; 
even a slight omission of religious practice entails a loss of 
some kind.
     Just men depend on the grace of God rather than on their own 
wisdom in keeping their resolutions. In Him they confide every 
undertaking, for man, indeed, proposes but God disposes, and God's 
way is not man's. If a habitual exercise is sometimes omitted out 
of piety or in the interests of another, it can easily be resumed 
later. But if it be abandoned carelessly, through weariness or 
neglect, then the fault is great and will prove hurtful. Much as 
we try, we still fail too easily in many things. Yet we must 
always have some fixed purpose, especially against things which 
beset us the most. Our outward and inward lives alike must be 
closely watched and well ordered, for both are important to 
perfection.
     If you cannot recollect yourself continuously, do so once a 
day at least, in the morning or in the evening. In the morning 
make a resolution and in the evening examine yourself on what you 
have said this day, what you have done and thought, for in these 
things perhaps you have often offended God and those about you.
     Arm yourself like a man against the devil's assaults. Curb 
your appetite and you will more easily curb every inclination of 
the flesh. Never be completely unoccupied, but read or write or 
pray or meditate or do something for the common good. Bodily 
discipline, however, must be undertaken with discretion and is not 
to be practiced indiscriminately by everyone.
     Devotions not common to all are not to be displayed in 
public, for such personal things are better performed in private. 
Furthermore, beware of indifference to community prayer through 
love of your own devotions. If, however, after doing completely 
and faithfully all you are bound and commanded to do, you then 
have leisure, use it as personal piety suggests.
     Not everyone can have the same devotion. One exactly suits 
this person, another that. Different exercises, likewise, are 
suitable for different times, some for feast days and some again 
for weekdays. In time of temptation we need certain devotions. For 
days of rest and peace we need others. Some are suitable when we 
are sad, others when we are joyful in the Lord.
     About the time of the principal feasts good devotions ought 
to be renewed and the intercession of the saints more fervently 
implored. From one feast day to the next we ought to fix our 
purpose as though we were then to pass from this world and come to 
the eternal holyday.
     During holy seasons, finally, we ought to prepare ourselves 
carefully, to live holier lives, and to observe each rule more 
strictly, as though we were soon to receive from God the reward of 
our labors. If this end be deferred, let us believe that we are 
not well prepared and that we are not yet worthy of the great 
glory that shall in due time be revealed to us. Let us try, 
meanwhile, to prepare ourselves better for death.
     "Blessed is the servant," says Christ, "whom his master, when 
he cometh, shall find watching. Amen I say to you: he shall make 
him ruler over all his goods."[4]

[4] Luke 12:43, 44.

第20章 孤独と沈黙を愛すること

静まるためにふさわしい時間を求め、 神の恩恵について何度も思いを巡らせなさい。 好奇心を満たそうとしてはいけません。 心を占領するようなものよりも、心に悲しみをもたらすものを読みなさい。 不必要なおしゃべりや、 目的もなく走り回りゴシップや噂ばなしに耳を傾けることから身を退けるなら、 聖い黙想に適した時間を十分にとることが出来るでしょう。

偉大な聖者の多くが、出来る限り人と付き合うことを避け、 ひそかに神に仕えることを選びました。 ある人はこのように言いました。 「人と交われば交わるほど、その後で空虚感を覚えました」 長い会話をした後に、これが確かに真実であることを私たちもよく経験します。 あまり話さないでいるよりは、完全に沈黙を保つ方が簡単です。 十分に警戒しながら外出するよりは、家に留まる方が簡単です。 ですから、誰でも内面的で霊的な生活を目指す人は、イエスとともに、 群衆から離れなくてはなりません。

まず無名であることを享受するのでなければ、 誰も世間の目の前に安心して出ることはありません。 まず無口であることを愛するのでなければ、 誰も安心して話すことはありません。 まず喜んで治められるのでなければ、誰も安心して治めることはありません。 まず従うことをよく学ぶのでなければ、誰も安心して命令することはありません。 まず良心の証を自分のなかに持つのでなければ、 誰も安心して喜ぶことはありません。

これ以上に、 聖者が安全でいられるのは神への恐れのなかにいつも包まれているからです。 聖者の安全は、 注意が足りないことや、謙遜が足りないことの中にあるのではありません。 彼らは素晴らしい美徳や恵みに輝いているからです。 これとは反対に、 邪(よこしま)な者の安心はプライドや傲慢から生じ、 しまいには自己欺瞞に陥いるでしょう。

この世のいのちにおいて決して自分に安全を約束してはいけません。 たとえあなたがとても敬虔で熱心な隠遁者であると思ってもです。 人々から高い評価を得ている人ほど、過剰な自信のゆえに より深刻に危険な状態にあるということがよくあります。 ですから、誘惑からあまり自由になり過ぎない方が、 多くの人にとってはいいのです。 安全になり過ぎたり、プライドに満ちたり、 外的な快適さをしきりと求めるようにならないために、 たまには試練があるくらいの方がいいのです。

はかない喜びを求めたり、 この世的なことがらに自分から深く関わったりさえしなければ、 その人はどれほど健全な良心を持つでしょう。 全ての空しい心配事から自らを切り離し、 ただ神に関することがらや己の魂に役に立つことだけを考え、 全ての信頼を神に置くのなら、 どれだけすばらしい平安と静寂を自分のものにできるでしょう。

人が絶え間なく自らを聖なる悔い改めに向かせるのでなければ、 誰も天からの慰めを受けるに値しません。 あなたが真の心の悲しみを願うのであれば、 一人きりになれる小部屋に入り、世の中の喧騒を閉め出しなさい。 このように書かれている通りです。 「自分の部屋で自らの罪のために嘆き悲しみなさい」 そこではあなたが頻繁に外で失うものを見つけるでしょう。

その小部屋は、もしあなたがそこに留まるのなら、 あなたにとってとても大切なところになるでしょう。 しかし留まらないなら、退屈な場所になります。 あなたの信仰生活の初めにおいて、 あなたが小部屋のなかに住み、そこから離れないなら、 まもなくそこは特別な友となり、大変な慰めとなるでしょう。

沈黙と静けさのなかで、敬虔な魂は徳を高め、 御言葉の隠された真理を学びます。 そこでその人は夜ごとに自らを洗い清める涙の洪水を経験します。 それによってその人は父なる造り主と一層近密な関係を持つようにと、 この世の騒ぎから一切身を引くのです。 というのは、神とその御使いたちは、 周囲の人々から身を避ける人に近付いてくださるからです。

人にとって、人目につかないようになり、 自らの救いに注意をはらう方が、 救いを無視して奇跡を行うよりも良いのです。 敬虔な人が滅多に外出せず、 人々の目を避け、人々に会わないように願うのは、 誉めるに値することです。

なぜ持つことを許されないものを見たがるのですか? 「この世とその情欲は過ぎ去ります」 官能的な渇望は、時として、あなたを魅了し、あなたをさまよわせます。 しかしその瞬間が過ぎるとき、困惑した良心と重たい心の他に、 何を持って帰るというのですか? 喜んで出かけても、往々にして悲しんで戻ることになるのです。 陽気な夕べから悲しみに沈んだ夜明けへとです。 このように、 全ての肉的な喜びは好ましいものとして始まりますが最後には嘆きと死をもたらすのです。

あなたの小部屋で見つからないものを、他のどこで見つけることができるでしょうか? 天と地と、そこにある全ての要素を見なさい。 全てのものはそれによって造られているからです。 長く残るものを、太陽が照らしているどこかに見つけることは出来るでしょうか? あなたは自分では完全に満足していると思うかもしれませんが、 それはあり得ないのです。 なぜなら、存在するもののすべてをあなたが見たとするなら、 それらは空しい幻以外の何ものでもないからです。

あなたの目を天におられる神に向けなさい。 そしてあなたの罪と欠点のゆえに祈りなさい。 空しいことは、空しい人々にまかせなさい。 あなた自身は、神があなたに命令していることに心を向けなさい。 あなたの前で扉を閉め、愛するお方であるイエスを呼びなさい。 あなたの小部屋でイエスと共にとどまりなさい。 そのような平安は他のどんな場所にも見いだせないからです。 もしあなたがそこから離れず、空しいうわさ話に耳を貸していなかったなら、 あなたはさらに深い平安のなかにとどまっていたことでしょう。 しかしあなたは新しい話を聞くのを喜ぶことがあるので、 そのせいで心の悲しみに苦しむのは当然のことなのです。

第21章 心の悲しみ(校正中)

もしもあなたが、徳のうちに進みたいと願うならば、神を畏れて生きなさい、 あまりに多くの自由を求めてはいけません、あなたの感覚を鍛錬しなさい、 そして空虚で愚かなことを避けなさい。悲しみはふしだらをいつも滅ぼす 多くの恵みにドアを開けます。

亡命国で熟慮し、深く考える人やその人の魂の多くの危険が完全にこの 生涯で幸せになりえることができるかはわかりません。Lighthearted and heedless of our defect, 私達は魂の本当の悲しみを感じることはありませ ん、しかし私達は涙を流すよい理由があるとき、しばしば空虚な笑いにふ けります。もしも神への畏敬や良い分別に基づかれていなければ、自由が ないのが真実であり、喜びがないのが真です。

幸せはあらゆる心配の重みから抜け出し、聖なる悔恨に心を落ち着かせ ることのできる人です。幸せは良心を傷つけたり苦しめたりする全てを彼 から打ち破る人です。

家臣のように戦いなさい。習慣は習慣で克服されます。もしもあなたが人に 干渉しないならば、彼らはあなたがしなければならないことをするためにあなた を干渉しないでしょう。他人の事情について忙しくするのはやめなさい。あなた の上司の仕事に巻きこまれるのはやめなさい。第一にあなた自身に目を向け 続けなさい。あなたの友人の代わりにあなた自身を気づかせなさい。

もしもあなたが人の親切を経験しないならば、あなたを悲しませることはあり ません。もしもあなたが神に仕える人や敬虔な修道士にふさわしい注意深さ と同様にふるまわなければ、深刻な問題だと考えます。

この生涯で慰めがほとんど無い方が、特に体の慰めが無い方が私達にとって しばしばより良く、安全です。しかし、もしも私達が慰めを分かち合わなければ また、それをめったに経験しなければ、心の悲しみを捜さずに中身の無い見せ かけの満足をやめない私達のせいです。

かなりの苦しみより神の慰めや深い悲しみに価値が無いと考えなさい。人が完 全に悔恨する時、世界全体が彼にとって苦しく、うんざり感じます。

良い人はいつも十分嘆き悲しむことをわかります。彼は彼自身あるいは誰も苦し みを経験することなしに生きることはできないことを知っている隣人かどうかを考 えます。そして、彼はきわめて自分自身を考察し、もっと彼は深く悲しみます。

とても混乱しているので私達は私達自身を神の考えにめったにむけないことは 罪であり悪です。そして、悲しみや深い悔恨にあります。

長い人生より早い死を考えるならば、きっとあなたはあなた自身を真剣に 罰するでしょう。そしてもしあなたが、地獄あるいは浄罪界の未来の痛みを心に あれこれ考えるならば、進んで骨の折れる仕事や困難に耐え、困難を恐れない だろうと信じます。しかし、この考えは決して心を突き進むことがないので、 また私達は気休めの喜びに心を奪われるので、私達はとても冷たく、無頓 着のままでいます。私達の惨めな体が魂があまりに活力がなさすぎるので 簡単に訴えています。

主に祈りなさい。それゆえに、主はあなたに悔恨の聖霊を与えるでしょう。 預言者に言いなさい。「慰めてください、主よ、悲しみのパンで十分な慎みの涙 飲むことで与えてください。」(Ps. 79:6)

第22章 人の苦しみについて(校正中)

どこにいようと、どこに行こうと、神に向き合わない限りあなたは 不幸だ。だから、願い望んだことが起こらないからといってどうして 落胆することがあろうか。すべての願いが叶えられた人などいるだろ うか。いや、いない。わたしもそうでないしあなたもそうでない。地上 のどこにもそんな人はいない。世界中の誰も----ローマ教皇だろうが 王だろうが、試練や苦悶を免れることはできない。

では、最も幸せなのはどんな人だろうか? それは、何かを神のために犠牲にする人に違いない。 不安定な心弱き人は言う、「あの 人を見たまえ、なんと頑健で、なんと豊かで、なんと偉大で、なん と力に満ち溢れているか」しかしあなたは目を開いて天の富を知ら なければならない。そうすれば物質的な豊かさについての彼らの言 い分が無意味だと悟ることができる。これらのものはうつろい易い うえにひどく負担になる。なぜなら所有することには心配と恐怖も またつきものだからである。物をたくさん持っている人が幸福とい うわけではない。所有する物はほんの少しで十分なのである。

地上に生きることは全く不幸である。霊的な生活を望めば望むほど、現状は 当人にとって苦々しく映る。なぜなら霊的な生活を望む人は理解深く、人の 生まれ持った堕落しやすい性質という欠陥を一層はっきり知覚するからで ある。飲み食い、見て眠り、休息し労働し、他人の要請に縛られているの は、信心深い人には甚だしく不幸で苦痛である。そういう人は全ての罪か ら自由になることを切望しているものだ。内面に信仰のある人間は肉体が 必要とするものによって現世にかたく縛られている。それ故に、預言者は できるだけ自由になるために「私に必要なものを、主よ、与えたまえ」と 祈ったのである。[Ps. 24:17]

しかし哀しいかな、自らの苦しみを知らない人達は、そして一層哀しい かな、そのみじめで堕落しやすい生活を愛している人達は。そうした人達の一部 は、労働によっても物乞いによっても必要なものをほとんど入手できない人達な のである。しかし彼らは現状に愛着しており、仮にここに常に住むことを 得たとしても、彼らは決して神の国を顧みない。

なんと愚かで不信心なのであろうか、世俗的な価値しかないものを 好む、現世の暮らしに夢中な人間は! 不幸な人間よ、最後にはきっと、 自らが切望して得たはすのものがどんなに安っぽく価値のないものかを 知って後悔する羽目になるのだ。

神の使徒たちとキリストの敬虔な友たちは肉体の喜びにもその時々の流行 にも目をとめない。彼らの望みと目的はひたすら永遠の善というものに向けられ ている。彼らがひたすらに切望するものは目に見えない永遠の王国であり、低俗 なものごとに彼らを引きずりおろす目に見える障害には決して近づかない。

魂を見失うなかれ、きょうだいよ、霊的な生活を追求するさなかには。 時間はある、遅すぎはしない。目的の実現を遅らせるのはなぜだ?  起ちて今すぐ始めなさい。「今が実行する時だ、今が戦いの時だ、 改めるのは今だ」

あなたが悩み苦しむとき、それは徳を積むときである。あなたは安息 の前に水と火をくぐりぬけなければならない。自らに鞭打つことなし に悪徳に打ち勝つことはできない。

この壊れやすいからだのなかにある限り、われわれは罪から自由に なることも、憂い悔いることなく生き続けることもできない。すべて の苦しみと無縁でいられたらどんなにうれしいだろう。しかし罪に染 まり無垢さを失ったいま、また真なる至福も失われた。ゆえにわれわれ はこの悪しきものが通りすぎるまで、死がわれらの運命を飲みこむまで、 辛抱強く神の慈悲を待たねばならない。

人の性質とはなんと弱いものか、これほど悪に染まりやすいとは。今日罪 を告白するあなたは、明日にはもう同じ罪をまた犯す。注意深くあろうと 決意した瞬間のわずか一時間後には、せっかくの決意を無にした振る舞いに戻る。

われわれには自らを貶める原因がある。それは意志の弱さと肉体の もろさであり、そのために、自らのうちの偉大なるものを決して顧 みることがない。長く辛い労働を通じてのみようやく得られた神の 恩寵をわれわれは怠慢によってたやすく失う。何という生温さで あろうか、われわれが速成されるであろう最終的状態は。なんと 哀しいのであろう、真の神聖さはかけらもない現世で、平和と安全 のうちに安息を夢みるわれわれは。良い修練者のように、 良い生活というものの規範の中で再び導かれ、 将来の改心と大いなる霊的な進歩を期待される方がずっと有益であっただろうに。

第23章 死についての考え

この世界でのあなたの命は、もうすぐ終わるでしょう。 ですから、自分のために別世界に何を貯えられるかを考えなさい。 今日、私たちは生きています。 明日、私たちは死に、あっという間に忘れ去られます。 ああ、人間の心は何と鈍感で、頑固なことか。 将来に備えようとせず、ただ現在だけを見ているとは。

ですから、何をするときでも、何を考えるときでも、 あたかも今日という日に自分が死ぬかのように振る舞いなさい。 もしあなたが正しい良心を持っているなら、死をそれほどは恐れないでしょう。 死を恐れるよりも、罪を避ける方が良いことです。 もし、今日、用意ができないなら、どうして明日、用意できるでしょう。 明日というのは不確かな日です。 どうしてあなたは、自分に明日という日がある、と思うのですか。

私たちが人生を正しく改めることがこれしかできないなら、 長い人生を生きることにどんなよいことがあるでしょうか。 ああ、実際、長い人生が常に私たちにとって益となるとは限りません。 その反対に、私たちの罪を増し加えることが多いものです。 この世において、私たちは、たった一日でも、 本来そのようにあるべき形で、正しく生きたことがあったでしょうか。 多くの人が、自分が宗教に費やした年月を数え、 自分の生活がちっとも聖なるものになっていないのに気がつきます。 もしも、死ぬのが恐ろしいことなら、 おそらくは、長く生きることはもっと恐ろしいことでしょう。 自分の死の瞬間を常に目の前に描き続け、自分の死に日々備えるのは幸いな人です。

もしも、人が死ぬのを見たことがあるなら、あなたも同じ道をたどるというのを忘れてはなりません。 朝が来たら、自分は夜までは生きていないかもしれない、と考えなさい。 夜が来たら、明日の明け方を約束するのはよしなさい。 いつも、備えていなさい。 備えができていないあなたを死が連れ去らないように生きなさい。 多くの人が、突然、予想もしないときに死にます。 神の御子は予想もしないときに来られるのです。 最後の時があなたに訪れたとき、 あなたは過ぎ去ってしまった自分の全人生についてまったく異なる考えを抱きます。 どれほど自分が、うかつで、だらしなく生きてきたかを悔やむでしょう。

何と幸せで、何と賢明な人でしょう。 死ぬ時にはこうでありたいと願うような存在に、 生きている今のうちになろうと努力する人は。 この世を完全に軽視すること、 徳において前進するのを心から願うこと、 修養を愛すること、 懺悔、即座の従順、自制、そしてキリストの愛のためにどんな困難でも忍耐すること、 これらによって人は幸福な死を期待することでしょう。

健康なとき、あなたはたくさんのよい行いをすることができます。 病気なら、あなたは何をすることができますか。 病によって善良になる人はほとんどいません。 同じように、たくさん巡礼の旅をして聖くなる人もめったにいません。

友人や親戚に信頼を置かないようにしなさい。 また自分の魂に気を配ることを後まわしにしてはいけません。 人は、あなたが考えているよりも早くあなたのことを忘れてしまうからです。 いますぐに、時を移さず備え、 他の人の助けを当てにせず、 send some good account ahead of youするほうがいいのです。 あなた自身が自分の幸福に今気を配らないとしたら、 あなたが死んだときにだれが気を配るというのでしょう。

現在はとても貴重です。 現在は救いの日であり、 今は喜びの時です。 もっと良い永遠の人生を買うことができたかもしれない時を、 あなたが逃してしまうなら、 それは何と悲しいことでしょう。 もう一日生きる時間が与えられたら、 もう一時間やり直す時間が与えられたらと望むときがやってきます。 あなたはその時間が与えられるかどうか知っていますか。

ですから、愛するあなたよ。 もしも、あなたがいつも慎重であり、死を忘れないようにしさえすれば、 逃れることのできる大きな危険と、 救い出される大きな恐怖をよく見なさい。 死の瞬間に恐れが満ちるようにではなく、 死の瞬間でも喜んでいられるように、現在を生きなさい。 この世に対して死ぬことを、いま学びなさい。 そうすればあなたはキリストとともに生き始めるでしょう。 すべての物を捨て去ることを、いま学びなさい。 そうすればあなたは解放されて神のところへ向かうでしょう。 あなたの肉体を懺悔によって厳しく責めなさい。 そうすればあなたは確かな生を勝ち得るでしょう。

ああ、おろかな人よ。 たった一日ですら生きられるかどうか確かではないのに、 どうしてあなたは長生きする計画を立てるのですか。 どれほど多くの人が思い違いをして、急に命を失うことでしょう。 あなたは、 溺れて死んだ人、高いところから落ちて死んだ人、 食事中に・遊んでいるときに・火事で・剣で・疫病で・あるいは強盗の手で死んだ人の 話をどれほどしょっちゅう耳にするでしょうか。 死はすべての人の終わりであり、 人の命は影のようにさっと過ぎ行くものなのです。

あなたが死んだあと、誰があなたのことを思い出してくれるでしょうか。 誰があなたのために祈ってくれるでしょうか。 愛する者よ、あなたができることを今、しなさい。 自分がいつ死ぬのか、あなたは知らないし、 死んだ後、自分がどうなるか、あなたは知らないのです。 時間があるうちに、朽ちることのない財産を自分のために貯えなさい。 ただ、自分自身の救いのことを考えなさい。 神に関わる事柄のみに心を砕きなさい。 神の聖徒を敬い、彼らの歩みにならって友人を作りなさい。 そうすれば、命の尽きるとき、 彼らはあなたを永遠の住まいに迎え入れてくれるでしょう。

この世では、よそ者であり続け、巡礼者でありつづけなさい。 心を自由に保ち、神のもとへ上げなさい。 あなたはこの地上には永らえる家を持っていないからです。 日々の祈りを、あなたのため息を、あなたの涙を直接神にささげなさい。 そうすれば、あなたの魂は死んだ後、 主のみもとで幸福にすごすことでしょう。

第24章 裁きと罪の罰

すべてのことにおいて、終末を考えに入れなさい。 何も隠すことができず、 わいろも言い分けも通用しない、 すべての公正なる裁きをなさる、あのお方の厳しい審判の前に、 どのようにして耐えることができるでしょうか。 そして、あなたよ、みじめで不幸な罪人であるあなたよ、 怒った人の表情すら恐れているあなたよ、 あなたのすべての罪をご存知の神に対してなんと答えるつもりですか。 どうしてあなたは、裁きの日のために備えないのですか。 その日には、どんな人も言い訳したりできず、誰しも自分の答えをするのに手一杯なので、 誰かに弁護してもらったりすることもできないというのに。 この人生において、あなたの労苦は報われ、 あなたの涙は受け入れられ、あなたのため息は聞かれ、 あなたの悲しみは慰められ、きよめられます。

忍耐強い人というものは、 次のようなときに大きくて有益な苦難を通ります。 それは、自分自身の傷よりも 自分に傷を負わせた人の悪行のことを嘆くとき。 彼が自分の敵のことをさっと祈り、 敵の攻めに対して心から赦すとき。 彼がためらわずに他の人の赦しを請うとき。 怒りよりも哀れみのほうが心を動かすとき。 自分自身を頻繁に責め、 肉体を完全に霊に従わせようとするとき。

罪の悔い改めをして悪徳を刈り取ることを現在おこなうほうが、 来るべき世において魂の浄化をするのを待つよりも良いのです。 実際、私たちは肉体を愛する誤った助言によって 自分自身をあざむきます。 かの炎は我々の罪以外の何を燃料とするでしょうか。 私たちが自分自身を惜しめば惜しむほど、 肉体を満足させればさせるほど、 清算するのは困難になり、 炎で燃やされるものが多くなるのです。

というのは、人は自分が罪をおかした事柄において、 よりひどく罰をうけるようになるからです。 そこでは、怠け者は炎の先端に駆り立てられ、 大食らいの人は話すことすらできないほどの空腹と乾きに苦しめられるのです。 不貞を働く人や肉欲を愛する人は、 燃えるピッチとむかつく硫黄に浴することになります。 ねたみ深い人は、 狂った犬のように嘆き吠えるでしょう。

いかなる悪も、それに応じた罰を伴うものです。 高慢な人は、あらゆる混乱に直面するでしょうし、 欲深な人は、最高にみじめな貧困に苦しむでしょう。 1時間あちらで苦しみを受けることは、 100年間こちらでもっとも厳しい懺悔を行うことよりもつらいでしょう。 (One hour of suffering there will be more bitter than a hundred years of the most severe penance here.) こちらの生活では、人はときどき労働から解放されて友からの慰めを受けますが、 damnedな人々は、休息を得ることや慰めを得ることはありません。

ですから、あなたがたは、いま自分の罪を取り扱い、悔い改め、 裁きの日には恵みによって安息に入ることができるようにしなければなりません。 というのは裁きの日には、the just will stand firm against those who tortured and oppressed them, and he who now submits humbly to the judgment of men will arise to pass judgment upon them. 貧しい者、へりくだるものは、大きな確信を得るでしょう。 一方、傲慢な者は恐怖に打たれるでしょう。 そのときになると、 この世においては愚かとされ、 キリストのために軽蔑されるような人が、 実は賢明だったのだということが明らかになるでしょう。

その日には、すべての忍耐の中から生まれた試練は喜ばしいものとなり、 邪悪な声は沈黙するでしょう。 信仰深い者は喜び、不信心者は嘆くでしょう。 はずかしめを受けた体は、 ありとあらゆる快楽で甘やかされてきた体よりも、 はるかに大きな喜びを得るでしょう。 そのとき、安っぽい衣装は堂々と輝き、 立派な衣装は色あせ、すり切れるでしょう。 貧相で小さな家は、黄金の宮殿よりも賛美されるでしょう。 その日には、辛抱強い忍耐力はこの世のすべての力よりも重要なものとされるでしょう。 愚かなまでに一途な従順は、この世的ないかなる賢明さよりも高められるでしょう。 善良できよい良心は、学識のある人の哲学よりも、人の心を喜ばせるでしょう。 財産を軽視する態度は、この世のすべての宝よりも重用になるでしょう。

そしてあなたは、優雅に暮らすことよりも、熱心に祈ることのうちに、 さらなる慰めを見出すでしょう。 あなたは、 だらだら続く噂話よりも沈黙を好むほど 幸せになるでしょう。

多くのきれいな言葉よりも、聖なる働きは大きな価値を持つでしょう。 人生の厳しさと激しいpenancesは、 すべての世俗的な喜びよりも喜ばしいものとなるでしょう。

ですから、現在のささやかな苦しみを受けることを学びなさい。 そうすれば、より大きな苦しみを永遠において受けることはないでしょう。 ここで、自分が何に耐え得るかを示しなさい。 現在、ほんの小さな苦しみにしか耐えられないなら、 どうして永遠の苦しみに耐え得ることができるでしょう。 もし、小さな苦しみにいま耐えられないなら、 地獄の炎はどうなるでしょう。 実際、あなたは二つの喜びを持つことはできません。 この世の喜びを味わうことと、 後の世にキリストとともに統べ治めることを同時に行うことはできません。

今、この時、あなたの人生が栄光と歓喜に満ちているならば、 もし、あなたが死んだ瞬間、それが何の益になるでしょう。 ですから、すべてはむなしいのです。 ただ、神を愛することと神に仕えることだけがむなしくありません。

心の底から神を愛する人は、 死を畏れず、罰や、裁きや、地獄を恐れません。 なぜなら完全な愛が神との結びつきを保証するからです。

罪の喜びの中にまだいる人が、 死や裁きを恐れることは不思議ではありません。

しかしながら、これはいいことです。 愛がまだあなたを悪に向かうのを引き止めないとしても、 少なくとも地獄に対する恐怖はあなたが悪に向かうのを引き止めるというのは。 神への畏れを脇に投げ捨てるような人は、良いことのうちに永らえることはできず、 あっというまに悪魔の罠におちいってしまうでしょう。

第25章 自分の人生を熱心に改めること

注意深く、神の奉仕に熱心でありなさい。 そして、自分はなぜ世俗を離れて、ここに来たのかを頻繁に考えなさい。 神のために生き、霊的な人間になるためではなかったのですか。 完全になることを心から求めて努力しなさい。 そうすれば、そしてまもなくあなたは自分の働きの報酬を受け取るのであるから、 恐れや悲しみが死の時にあなたを襲うことはないでしょう。

いま少し働きなさい。 そうすればまもなくあなたは大いなる休息を見出すでしょう。 実際、あなたが見出すのは永遠の喜びです。 というのは、もしもあなたが信仰深くあり、行ないにおいて熱心であり続けるなら、 神は疑いもなく報酬を与えるときにおいても真実で気前のよい方だからです。 救いを得ているというしっかり筋の通った望みを持ち続けなさい。 しかし、 あたかも救いを得るのが当然であるかのように振舞ってはいけません。 それは、怠慢になったり傲慢になったりしないためです。

ある日のこと、 希望と恐怖の間を心配のうちにしょっちゅう揺れ動いている人が、 悲しみで打ちひしがれていました。 彼は、教会の祭壇の前でひざまずき敬虔な祈りをささげました。 あれこれと瞑想にふけりながら、彼はこう言いました。 「ああ、もしも私が最後まで屈せずにやり遂げるかどうかを知ることさえできればなあ!」 即座に彼は神の答えを聞きました。 「もしあなたがそのことを知ったからといって、どうしようというのですか。 そのときにあなたががするであろうことを今、しなさい。 そうすればあなたはまったく心配することがなくなるでしょう。」 すぐに慰めと平安を受け、 彼はその神のご意志に身をゆだね、悩ましい不安定さはストップしました。 それ以降、彼の好奇心は自分の未来がどうなるかを知ろうとすることをやめました。 彼はその代わり、 すべての良き働きの初めであり終わりである、完全で欠けることのない神のご意志を 探し求めるようになりました。

「Trust thou in the Lord and do good,」と預言者は言いました。 「dwell in the land and thou shalt feed on its riches.」(Ps. 36:3)(聖書要確認。箇所違い?)

自分の生活を熱心に改めることから多くの人をそらしてしまう1つのことがあります。 それは困難なことに対する恐れであり、戦いに対する苦労です。 確かに、最も大きな困難や不愉快な障害に対して勇敢に打ち勝とうと努めている人は、 徳を追求することにおいて他人を追い抜くことになります。 人というものは、自己に対して最も打ち勝ち、自分の望みを最も抑制した事柄において 最大の前進をし、最大の恵みを確実に受け取ることになるのです。 そうです。 直面して勝利をおさめねばならないような困難が、どんな人にもそれぞれにあります。 しかし、たとえ感情に走り勝ちであっても、勤勉で誠実な人のほうが、 落ち着いているけれど徳についてあまり気にかけない人よりも、大きく前進するものです。

特に大きな進歩となるのは次の2つのことです。 それは、自然的な性向によってしつこく陥る傾向のある悪徳から強制的に撤退することと、 最も必要な恵みを求めて熱心に働くことです。

あなたをしょっちゅう不愉快にさせるような失敗を他の人がするなら、 あなた自身はそのような失敗をせず、 そのような失敗に打ち勝つことを学びなさい。 すべての機会を最大限に生かして、 もしもあなたが良い例を見たり聞いたりしたなら、 あなたがまねをしたいと思うほど感動するようなものになりなさい。 (Make the best of every opportunity, so that if you see or hear good example you may be moved to imitate it.) それに対して、 あなたがこれはひどいと考えるような事柄において、 自分が罪をおかさないように注意しなさい。 また、もしもそういう事柄で罪をおかしたことがあるなら、 できるだけ早く自分自身をただしなさい。 あなたが他の人を見るのと同じように、他の人もあなたを見ているのです。

熱心で、信仰深く、礼儀正しく、また訓練されている兄弟を見ることは、 何と喜ばしく心地よいことでしょう。 ばらばらにさまよい、召されている事柄を実践しようとしない兄弟を見ることは 何と悲しく痛みを感じることでしょう。 召命の目的を無視し、自分が関知すべきでない事柄にかかずらうのは、 なんと有害なことでしょう。

あなたが請け負った目的を忘れないようにし、 十字架のイメージを心に留めておきなさい。 たとえあなたが長年にわたって主の道を歩いてきたとしても、 あなたの前にキリストのイメージを置き、 自分自身をさらに主に似たものになるよう努めなかったなら、 あなたは恥ずかしいと思わねばならないでしょう。

一心に、信仰深く、私たちの主の最も聖なる生涯と熱意に関わる信仰者は、 その中から、自分に必要で有益なすべてのことをたくさん見出すでしょう。 イエスさまよりもよいものを何も探し求める必要はないのです。

もしも十字架が私たちの心に届くなら、 どれほどすばやく豊かに私たちは学ぶことでしょう。

熱心な信仰者は、命じられたすべてのことを受け入れ、しかもよく成し遂げます。 しかし、怠慢で不熱心な信仰者は、 試練に継ぐ試練を受け、ありとあらゆる方向から苦悩を受けます。 なぜなら、そのような人は内には慰めを持たず、 外に求めることも禁じられているからです。 神の規則に従って生きない信仰者は悲惨な破滅に身をさらすこととなり、 もっと気ままでいたいし、拘束されたくないと願う人は、いつもトラブルにおちいります。 というのは、その人はあれやこれやの物事に対していつも不満を抱くからです。

どうして、 こんなに多くの他の信仰者たちが、 修道院の規律に縛られてやっていけるのでしょうか。 彼らはほとんど外へ出ず、熟考の内に住み、食事は貧しく、 着るものは粗悪で、勤勉に働き、ほとんど話さず、徹夜で祈祷し、 早くから起き、たっぷり祈り、頻繁に読書をし、あらゆる訓練に従事します。 カルトジオ修道会の人や、シトー派の人のことを考えなさい。 他の修道会に属する修道者や修道女たちのことを考えなさい。 彼らがどんなふうに毎晩起きて主に賛美の歌を歌うかを考えなさい。 これほど多くの信仰者が神の内にすでに喜び始めているというのに、 あなたが聖なる務めに怠けているとしたら恥ずかしいことです。

もしも、心のすべて、声の限りを尽くして主なる神を賛美する以外にすることがなかったなら、 もしも、食べたり、飲んだり、眠ったりする必要がなく、 常に神をほめたたえ、霊的な探求に専念することができるなら、 肉体のすべての必要の奴隷となっている現在に比べて、どれほど幸せになるでしょう。 そのような必要がなく、魂の霊的な食事だけがあったとしても、 悲しいことに、私たちがそれを味わうことは非常にまれなのです。 (Would that there were no such needs, but only the spiritual refreshments of the soul which, sad to say, we taste too seldom!)

どんな被造物からも慰めを求めないという境地に達するとき、 人は、神を完全に享受し始めることになります。 そのときまた、人は自分に何が起こっても満足することでしょう。 そのような境地に達した人は、大きなことにも嬉しがらず、 小さなことにも嘆きません。 そのような境地に達した人は、 確信を持って自分自身を完全に神の手にゆだねます。 すべてのすべてである方、 そのお方に向かうとき何物も滅びたり死んだりしない方、 すべての存在がその方のために生きる方、 その方が望まれるがままにすべての存在が仕える方、 そのようなお方である神の手に。

いつも自分の最期を考えに入れ、 失われた時間は二度と戻っては来ないということを忘れてはいけません。 注意深さと勤勉さがなければ、徳を得ることは決してできません。 生ぬるい不熱心さを育て始めるなら、 あなたは悪の始まりに陥ろうとしているのです。 しかし燃えるような熱心さに向かうなら、 神の恵みと徳の愛によって、 あなたは平安を得、困難が軽減されることでしょう。

熱心で勤勉な人間はいかなることにも備えができています。 悪徳や欲情に抵抗するというのは、肉体的な苦役に汗するよりも偉大な仕事です。 小さな失敗に打ち勝たない人は、少しずつ大きな失敗にはまり込んでいくのです。

もしもあなたが昼間を有意義に過ごすなら、 夕方にはいつも幸せになることでしょう。 自分自身をしっかりと見張りなさい。目を覚ましていなさい。 注意深くありなさい。他の人に何が起ころうとも、自分自身を取るに足りないものと思いなさい。 自分自身に厳しくあればあるほど、あなたは大きく前進することでしょう。

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