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違星北斗 - 違星北斗 1902生, 1929没

目次

違星北斗 1902生, 1929没

淋しい元気

北斗は号であって滝次郎と云ひ、小学校は六年級をやっと卒業した。其の後鰊場のカミサマを始め石狩のヤンシュ等で働いた。

大正七年頃に重病をして思想的方面に興味を持つ様になった。十四年二月に東京府市場協会の事務員に雇はれ一年半を帝都で暮した。 見る物も聞く物も、私の驚異でないものはなく、初めて世の中を明るく感じて来た。けれどもそれは私一人の小さな幸福に過ぎない事に気附いて、 アイヌの滅亡を悲しく思うた。

アイヌの研究は同族の手でやりたい、アイヌの復興はアイヌがしなくてはならない強い希望に唆かされ、嬉しい東京を後にして再びコタンの人となった。 今もアイヌの為に、アイヌと云ふ言葉の持つ悪い概念を一蹴しようと、『私はアイヌだ!』と逆宣伝的に叫びながら、淋しい元気を出して鬪ひ続けて居る。

此の念願の下に強固な意思を持って真に生甲斐を感じながら。

日記

(昭和2年)7月11日

日曜日 晴天 

平取にて

 今日は日曜日だから此の教会に生徒が集まる。メノコが7人来る。此の人達はアイヌ語で讃美歌を歌ふ。其の清聴な声音は魂の奥底までも浸み込む様な気がして、一種の深い感慨に打たれた。

 バチラー博士五十年の伝道は今此の無学なメノコの清い信仰で窺はれる。

 今更の様に妙音に聞き入って救はれた人達の仕合せを痛切に感じる。ヤヱ・バチラー氏のアイヌ語交りの伝道ぶり、その講話の様子は神の様に尊かった。信仰の違ふ私も此の時だけは平素の主義を離れて祈りを捧げた。アイヌ語の讃美歌……あの時の声音は今も尚耳に残って居る。

 知里幸恵様の御両親とお宅とを始めて知った。花のお家、樹のお家、池のお家として印象深いものだった。幸恵さんのお母様はローマ字も書けば英語も出来ると云ふ感心なお方。お父様は日露の役に出征された中々の偉いお方。此の人達の子供さんだから賢いのも当たり前だと思った。景色のよい所に住んで居られる此のお家の人達は羨しい。ウタリーに此の人達のある事は心強いと思ふ。

 

7月14日 水曜日

教会の壁を張替する。下張りしたりするのにかなり手間取る。全く今日の仕事は捗らなかった。欄間と正面の扉の立派な所だけ張る。それで手許が暗くなったので一先休止。晩飯を食ってから応接室の天井と壁の古い紙を剥いで五分の二位下張りをやる。残りは明日やる事にした。今日は岡村先生と色々お話をしながら仕事をした。此の村の青年の事、一般の思想に就いて、ヤヱ姉様の目下の運動に対する意見の交換、此の村で欲しいもの――浴場と図書館の事、施薬の事も考へて見た。浴場は一寸お金がかゝるらしい。維持費も要る問題だ。けれども欲しいものである。なんとかならないものだらうか。岡村先生自転車を欲しいとある。どうもそれは一寸難しい。一個人の便利の為に私は心配する気がない。せめて浴場ならばと考へて見る。

   五十年伝道されし此のコタン

    見るべきものの無きを悲しむ

   平取に浴場一つ欲しいもの

    金があったら建てたいものを

 

7月15日 木曜日

晴天
 

 向井山雄氏当地に来る。バチラー博士も来られるとの事で、大至急張り替へをやる。岡村さんのお宅の応接室もどん/\やって了ってから博士が来られた。今日はお祈りをすると云って使を出されたので、7時半から教会に人集ったが少数であった。

 鐘はかん/\と鳴る。それが此の小さなコタンの澄み切った夜半の空に響きに和して歌ふ。

 お祈りの終った頃は月も落ちて、北斗星がギラギラと銀河を睥睨して居た。

 

7月18日 日曜日 雨天

中山先生のお手紙にあった歌

    ホロベツの花の匂へるヱサシ浜

    メノコの声音聞けば楽しも

    輝けよ北斗となりて輝けよ

    君はアイヌの違星なりけり

富谷先生より

    神よりの使命と叫びけなげにも

    君わけ入るや人の道にと

    道の為踏み出し君に幸あれと

    祈る心は今も変らず

    文机の一輪挿しの花うばら

    君の心にたとへてしがな

今又読み返して嬉し涙をこぼした。

 

8月2日 月曜 晴天

 随分疲れた。こんなに今から疲れる様では自炊も出来まい。それなら一体俺はどうする、まさか余市にも帰れまい。自分の弱さが痛切に淋しい。

 レプヌル氏が当地では一番先に林檎を植ゑたさうだ。どうかして林檎をうんと植ゑて此の村を益したいものである。

    

    熟々と自己の弱さに泣かされて

    又読んで見る「力の泉」

  

 

8月4日 水曜日 晴天

後藤静香先生からお手紙来る。

    先生の深きお情身に沁みて

    疲れも癒えぬ今日のお手紙

 

8月11日 水曜日

有馬氏帰札、曰く

1、アイヌには指導者の適切なのが出なかった事

2、当面の問題としては経済的発展が第一である事

村医橋本氏に会ふ。曰く

1、20年間沙流川沿岸に居る。

2、年寄は仕方もないが若い者は自覚する事が第一である。

 後藤先生よりお手紙を頂く。幼稚園に就いての問合せであるが困った事だ。先生としては成程御尤であるが、何分にもバチラー先生の直営なのだから……。

 

8月13日 金曜日

 今夜教会に行って岡村さんが札幌に行かれたと聞く。聞けば幼稚園の事ださうだ。それなら前にお話してあるから同じ事だ。それとも後藤先生が他から何か聞いて、それを此方に訊きたくて呼ばれたのか知ら? 何にしても此の幼稚園は此の村に無くてはならぬものの一つであるから、どうぞ岡村先生がよいお便りを齎(もたら)して下さる様に祈って止まない。

 

8月14日 土曜日

 岡村先生お帰り。幼稚園の問題だったと。

 後藤先生が万一送金を止められてもバチラー先生は園を永く続けるとの事。又此の家(家賃20円)の問題もあり教会の方を提供して、色々の設備もするとの事であった。

 

8月16日 月曜日 

晴れ、夜雨
 

 土方の出面に行く。岡村先生と例の話をする。嬉しい。若しも此の村に此の先生が居られなかったらどんなに淋しい事だらう。今日は栄吉さんの皮肉な話を聞いて、一層淋しく、此の様な村はいやになると思うたが、岡村先生に慰められて又さうでもないと思ひ直す。

 勉強も出来ず研究もしないで居る自分は苦しい。まあ気永にやるの他はない。それにしても余市に行って林檎も研究せねばならぬ。その方面のアイヌ事情も知りたいと思ふ。

 後藤先生に手紙を書く。

1、1箇年50円の薬価――施薬

2、正月と中元に30円父に送金

3、二風谷に希望園を作る 林檎300本

4、コタンに浴場を建てたい

5、札幌に勤労中学校

6、土人学校所在地に幼稚園設置

7、アイヌ青年聯盟雑誌出版

 

8月26日 木曜日

 札幌バチラー先生宅にて一泊。後藤先生本日来札

 

8月27日 金曜日 雨天

 午後、後藤先生バチラー先生方へ御来宅。金をどうするかと訊かれる。よう御座いますと答へる。蒲団は送る様に話して来たと仰しゃった。お急ぎの様子なので碌にお話ししない。

 

8月28日 土曜日

 雨、時々晴
 

小樽で後藤先生の御講演を聴く。「帰結」の五箇条。駅で先生より20円也を頂く。やれ有り難や。やっとハイカラ饅頭10個お土産に買ふ。余市に着いたのは夕方。

   叔父さんが帰って来たと喜べる

   子供等の中にて土産解くわれ

 

8月31日 火曜日

 午後11時32分上り急行で後藤先生通過になる筈。中里君と啓氏と3人で停車場に行く支度をする。併し先生は居られなかった。林檎は送るより他に仕方がなくなった。

 

9月1日 水曜日

 晴れ、未明大雨
 

 今朝日程表で見ると後藤先生は30日夜に通過されたのであった。

 

9月19日 日曜日

 後藤先生から絵葉書が来た。「あせってはいけない……」と。本当に感謝に堪へない。コクワを先生に送って上げたいものだが。

 

12月26日 

希望社から金10円也と「心の日記」に「カレンダー」を送って貰うた。全く有り難いかな。かうして頂く上からは自分には責任があるんだ。何となく腑甲斐ない自分が淋しい。兎に角金のない時だけに嬉しさは一層だ。半分だけは今日感冒で寝ている兄に寄附してやらう。

 

(昭和3年)1月24日

 火曜日
 

 千歳ではもう暗くなって了った。附近で聞くとKといふ人が物の解った人と云ふので訪ねて行く。病人があると云って体よくはねつけられた。兎に角飯だけは御馳走になった。

 その隣へ行って頼んで見たが泊めて貰へない。もう一軒Nを訪ねたが駄目。Hも同様。

 夜も10時過だ。又もや夜道を2里。千歳村に引き返せば12時を過ぎるであらう。仕方がないから戻る。最初コタンの様子を聞いた人の家に来て起して、3時間許り休ませて下さる様に頼む。其処の親切な人は同情して泊めて下すった。やれ/\助ける神もあるものだ。まあよかった。雪でも降って居たらそれこそ大変だったらうに。

 

2月29日 水曜日

 豊年健治君のお墓に参る。堅雪に立てた線香は小雪降る日にもの淋しく匂ふ。帰り道ふり向いて見ると未だ蝋燭の火が二つ明滅して居た。何とはなしに無常の感に打たれる。

 豊年君は死んで了ったのだ。私達もいつか死ぬんだ。

 一昨年の夏寄せ書した時に君が歌った

   永劫の象に於ける生命の

   迸り出る時の嬉しさ

 あの歌を思い出す。

   永劫の象に君は帰りしか

   アシニを撫でて偲ぶ一昨年

 

4月25日 月曜日

 
 何だか咳が出る。鼻汁も出る。夜の事で解らなかったが、明るみへ出て見ると血だ。咯血だ。あわててはいけないとは思ったが、大暴風雨で休むところもない。ゆっくり歩いて山岸病院に行く。先生が右の方が少し悪いなと云ったきり奥へ入られた。静に歩いて帰る。

  喀血のその鮮紅色を見つめては

   気を取り直す「死ぬんぢゃならない」

  キトビロを食へば肺病直ると云う

   アイヌの薬草 今試食する

  見舞客来れば気になるキトビロの

   此の悪臭よ消えて無くなれ

  これだけの米ある内に此の病気

   癒さなければ食ふに困るが

 

5月8日 火曜日 風

 兄は熊の肉を沢山貰って帰ってきた。フイベも少し貰って来て呉れた。

  熊の肉俺の血となれ肉になれ

   赤いフイベに塩つけて食ふ

  熊の肉は本当にうまいよ内地人

   土産話に食はせたいなあ

  あばら家に風吹き入りてごみほこり

   立つ其の中に病みて寝るなり

  希望もて微笑みし去年も夢に似て

   若さの誇り我を去り行く

 

5月17日 木曜日

  酒飲みが酒飲む様に楽しくに

   こんな薬を飲めないものか

  薬など必要でない健康な

   身体にならう利け此の薬

 

6月9日

  死ね死ねと云はるるまで生きる人あるに

   生きよと云はれる俺は悲しい

  東京を退いたのは何の為 

  薬飲みつゝ理想をみかへる

 

7月18日 

 

  続けては咳する事の苦しさに

  坐って居れば縄の寄り来る

  血を吐いた後の眩暈に今度こそ

  死ぬぢゃないかと胸の轟き

  何よりも早く月日が立つ様に

  願ふ日もあり夏床に臥し

 

8月8日 火曜日

 中里の裏に盆踊りがあって11時頃まで太鼓の音が聞えて来た。今日は一度も咯血しない。

 西岡(※西田の間違い)氏の論文も今日で(了)だ。氏はよくもあんなに馬鹿々々しいまでに反駁したものだ。あの文中只一つ石器時代の事だけは、近頃自分も考へて居たし、又小保内さんにも語って居た事であった。只それだけだ。

 私は反駁に力を入れては醜いと云ふ事を発見した。今度は西田氏を度外視して只所信だけを述べよう。反駁の為の反駁は読む人をして悪感(※ママ)を起こさしめる。

 

9月3日 月曜日

 昨日午後4時頃からめまひがして困る。どうも原因は肩の凝りらしい。右の耳がヒーンとして眼がチラチラする。何となく淋しい。やっぱり生に執着がある。ある、大いにある。全く此の儘に死んだらと思ふと、全身の血が沸き立つ様だ。夕方やっと落ち着く。

 山野鴉八氏から葉書が来た。仙台放送局で来る7日午後7時10分からシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念。

 頭痛がする。今日は少し暑かった。今日はトモヨの一七日だ。死んではやっぱりつまらないなあ。

 

10月3日 水曜日 雨天

 病気してからとても気が小さくなった。一寸歯から血が出てもびっくりする。どうしてこんなに気が弱くなったのか知ら?

  永いこと病んで臥たので意気失せて

  心小さな私となった

  頑強な身体でなくば願望も

  只水泡だ病床に泣く

  アイヌとして使命のまゝに立つ事を

  胸に描いて病気を忘れる

 

10月5日 金曜日

 山岸先生お出で下さる。私の考では一ヶ月前よりも悪いのではないかと思ふと云へば「問題ではない。今日は余程よくなって居るよ」と先生は云はれる。ルゴール液は少し位飲んでも何でもないものだと。

 

10月8日 月曜日

 どうも具合が悪い。午後二時頃咯血した。ほんの少しであったが血を見てうんざりした。

 

10月9日 火曜日

 山岸先生お出下さって注射一本、薬が変わった。「氷で冷やすやうに」との事。先生には色々お世話になってなってなり過ぎて居る。何とも有難いやら、勿体ないやらだ。少しでも悪くなると先生に本当に済まないと思ふ。早くよくなりたいものだ。

 

10月26日 金曜日

 山岸先生看病大事と妹に諭し「国家の為にお役に立てねばならぬ」と云はれた。生きたい。

  此の病気俺にあるから宿望も

  果たせないのだ気が焦るなあ

  何をそのくよくよするなそれよりか

  心静かに全快を待て

 

 

 

11月3日 土曜日

 埋立の橋が完成した。此の日松谷の定吉と宇之吉が川尻で難船したのを常太郎が泳いで行ってロップで救うた。

 

12月10日 月曜日  

夕方古田先生がお出になって一時間半ばかり居て下すったので、金田一先生への代筆もして頂く。浦川君へ『アイヌ・ラックルの伝説』をも送って下さった。

  健康な身体となってもう一度

  燃える希望で打って出たや

 

12月28日 金曜日

 此の頃左の肋が痛む。咳も出る。疲れて動かれなくなった。先生にお願ひしても今日も来て下さらぬ。何べん診ても同じ事だと先生はお思召しなのかも知れない。

 東京の高見沢清氏よりお見舞の書留。

 東京の希望社後藤先生よりお見舞の電報為替。

 福岡県嘉穂郡二瀬伊岐順村364 八尋直一様より慰問袋「心の日記」とチョコレート。

  此の病気で若しか死ぬんぢゃなからうか

  ひそかに俺は遺言を書く

  何か知ら嬉しいたより来る様だ

  我が家めざして配達が来る

 

 

(昭和4年)1月5日 

土曜日
  
山岸先生来て下さる。20瓦の注射一本。これから続けるとの事。よいものであったら何でもやりたい。勇太郎君から八ツ目を貰ふ。

一月六日 日曜日 (絶筆)

勇太郎君から今日も八ツ目を貰ふ。

 青春の希望に燃ゆる此の我に
 あ丶誰か此の悩みを与へし

 いかにして「我世に勝てり」と叫びたる
 キリストの如安きに居らむ

 世の中は何が何やら知らねども
 死ぬ事だけはたしかなりけり

遺骸

 死せる魚は
 水に従って流れる
 時代の激流に溺る丶
 若き男女の遺骸
 何ぞ斯く多きや

 自己の道

 乃木大将も
 楠正成も
 自ら忠烈とは感じなかった。
 
 /

 瓜生岩子も
 ナイチンゲールも
 自ら慈善とは感じなかった。

 /

 誰に奉仕するのでもない
 為ないでは居られない
 自らの道を自ら行く。

 /

 慈善、奉仕、犠牲、忠烈
 当人には
 実に意外の言葉であった。

熊の話

  熊の話をせよといふことであります。
  一体アイヌと申しますと、いかにも野蛮人の様に聞えます。アイヌの宗教は多神教であります。
 万物が凡て神様であります。一つの木、一つの草、それが皆んな神様であります。そこには絶対平等 − 無差別で、
 階級といったものがありません。私の父は鰊をとったり、熊をとったりして居ります。この熊をとるといふことは、
 アイヌ族に非常によろこばれます。といふわけは、熊が大切な宗教であるからであります。熊は人間にとられ、人間
 に祭られてこと真の神様になることが出来るのであります。従って、熊をとるといふことが、大変功徳になるのであ
 ります。その人は死んでからも天国で手柄になるのであります。さういふわけでありますから、アイヌは熊をそんな
 に恐それません。私の父、違星甚作は、余市に於ける熊とりの名人です。何でも十五六年の前のことでした。こんな
 時代になると、熊取りなんどといふ痛快なことも段々出来なくなるので、同じ余市の桜井弥助と相談して、若い人達
 に熊取りの実際を見せるために、十四五人で一緒に出掛けて行きました。三日間も山の中を歩き廻りましたが、一頭
 も出会ひませんでした。今年父は五十幾つになって居ります。当時は四十代でありましたから、なかなか足が達者で
 した。弥助も足が達者でした。木の下をくぐるとか、雪の上をカンジキはいてあるかしては、とても二人にならんで
 歩く様な人はありませんでした。いつでも二人に遅れ勝ちで、二人は一行を待ちながら歩くといった具合でした。シ
 カリベツといふ山にさしかかりました。弥助は西の方から、父は青年をつれて南野方からのぼりました。例によって
 父は一行になくれて歩いて居りました。所が父の猟犬が父の前に来て盛んに吠え立てます。値はすっかり立腹して了
 って、金剛杖(クワ)で犬をたたきつけました。犬はなきながら遠ざかって行きました。程経て父の前にやって来て、
 また盛んに吠え立てます。狂犬になったのではないかと心配しながら又たたきつけますが一寸後へ下るばかり、盛ん
 に吠え立てます。今まですっかり気の附かなかった父の頭に、熊でも言たのではないかしらといふ考へが、ふいと浮
 んたので、ふりかへって見ると、馬の様な熊がやって切て居りました。それはもう鉄砲も打てない近い所に、じりじ
 りと足もとをねらって居るのです。咄嗟に父はクワを雪の上へ突立てました。熊は驚いて横の方へまわって、尚も足
 元をうかがって居ります。この間、鉄砲に弾を込める暇がありませんでした。(三日間も山を歩いたが熊に出合はな
 かったので、鉄砲には弾を込めてなかったのです。弾を込めたまま持って歩くといふことは可成り危険ですから)父
 は鉄砲で熊をなくりました。たたきました。その勢で熊を二回雪の上をとんばりがへりしました。父は一旦後じさり
 して、鉄砲に弾を込め様としましたが、先刻熊をたたきつけた際に故障が出来て了って弾が入りません。熊は今度は
 立って来ました。大きな熊でした。父は頭から肩先をたたかれました。(この時父は太刀 −タシロ− を抜くことを
 すっかり忘れて言たと申して居ります)ねぢ伏せられて父は抵抗しました。格闘しました。後からやって来た十二三
 人の連中はこれをどうすることも出来ませんでした。もし手出しをしやうものなら却って自分達を襲って来はしない
 かといふ件がありました。ただ茫然として、遠巻きにこれを見ているより仕方ありませんでした。弥助のやって来る
 のを待ちましたが、弥助はなかなかやって来ませんでした。父の防寒用の衣類も此の際余り役に立たず、頭、顔、胸
 をしたたかかみつかれました。父は熊の犬歯の歯の無い所を手でつかまへて尚も抵抗を続けて居りました。この時、
 山中熊太郎といふ青年が、熊に向って鉄砲を撃つ者はいないかと一同にはかりましたが、誰も撃たうとはしませんで
 した。熊に向って撃った鉄砲が却って格闘している人間に当りはしないかといふ心配がありましたから。と見ると、
 父は最早、雪の中へ頭をつっ込んで、防寒用の犬の皮によってのみ、熊の牙からのばれて居りました。一同は思ひ切
 って後の方から一斉に鯨波の声を挙げて進んで行きました。熊はびっくりして後ろをふりかへりました。そして人間
 の上を飛び越えて逃げて行って了ひました。実際、弥助のやって来るのは遅くありました。皆んなの介抱で山を下り
 ました。それから大分長い間医者にかかって居りました。
  所で、それ程の大傷が存外早く癒ったことは特に申し上げなければなりません。それはアイヌの信仰から来て居る
 のでありました、つまり熊は神様だ、決して人間に害を加へるものではない − といふ信仰が傷の全治を早からしめ
 るのであります。
  かうした場合、アイヌの宗教上、アイヌは熊をのろひます。そして、熊をのろふ儀式が行はれるのであります。
  其の後、父は熊狩りに懲りたのかと申しますのに決してさうではありません。大正七年の「ナヨシ村」の熊征伐を
 初めとして、その他にもしばしば出掛けて行きました。
  先程も申しました様に、熊はん隠元にとられ、人間に祭られてこそ、初めて真の熊になるからであります。
  皆さん、お忙しい仮名をお聞き下さいまして有難う御座いました。その他の色々と面白い話もありますが、今晩
 は大分遅くなりましたので、これだけにして置きます。有難う御座いました。

アイヌの姿 

北斗星 
 

後藤先生

 どういう風に書いたら今のアイヌに歓迎されるかと云うことは朧げながら私は知っています。にもかかわらず 本文は悉くアイヌを不快がらせています。  私は心ひそかにこれを痛快がっていると同時に、悲痛な事に感じて居ります。これは今のアイヌの痛いところ を可成り露骨にやっつけているからであります。もしアイヌの精神生活を御存じない御仁が之を御覧になられた ら、違星は不思議なことを言うものかなと思召されることでしょう。殊にコタン吟の「同化への過渡期」なぞに 至っては益々この感を深うすることでしょう。アイヌを愛して下さる先生にかようなことを明るみであばくこと は本当に恥ずかしいことであります。けれどもアイヌの良いところも(もしあったとしたら)亦悪いところも皆 んな知って頂きたい願から拙文をもってアイヌの姿(のつもりで)を正直に書きました。なるべくよそ様へは見 せたくじゃありません。それは歓迎されないからではありません。ナゼ私は私さえも不快な事実を表白せねばな らないか。その「ねばならぬ」ことを悲しむからです。只々私の目のつけどころ(ねらいどころ)だけを御汲み わけください。  永劫かくやと思わせた千古の大森林、熊笹茂る山野、はまなしの花さき競う砂丘も、原始の衣を脱いで百年。 見よ、山は畑地に野は水田に神秘の渓流は発電所に化して、鉄路は伸びる。巨船はふえる、大厦高楼は櫛の歯の ように並ぶ。  こうして二十世期の文明は北海道開拓の地図を彩色し尽くした。嗚呼、皇国の隆盛を誰か讃仰せぬ者あろうか。 長足の進歩! その足跡の如何に雄々しき事よ。  されど北海の宝庫ひらかれて以来、悲しき歩みを続けて来た亡びる民族の姿を見たか……野原がコタン(村) になり、コタンがシャモの村になり、村が町になった時、そこに居られなくなった……、保護と云う美名に拘束 され、自由の天地を失って忠実な奴隷を余儀なくされたアイヌ………、腑果斐なきアイヌの姿を見たとき我なが ら痛ましき悲劇である。ひいては皇国の恥辱である。  アイヌ! ああなんと云う冷かな言葉であろう。誰がこの概念を与えたであろう。言葉本来の意義は遠くに忘 れられて、只残る何かの代名詞になっているのはシャモの悪戯であろうか。アイヌ自身には負うべき責は少しも なかったであろうか? 内省せねばならぬことを痛切に感ずるのである。  私は小学生時代同級の誰彼に、さかんに蔑視されて毎日肩身せまい学生生活をしたと云う理由は、簡単明瞭 「アイヌなるが故に」であった。現在でもアイヌは社会的まま子であって不自然な雰囲気に包まれているのは遺 憾である。然るにアイヌの多くは自覚していないで、ただの擯斥や差別からのがれようとしていてのがれ得ない でいる。即ち悪人が善人になるには悔あらためればよいのであるが、アイヌがシャモになるには血の問題であり 時間の問題であるだけ容易でないのである。ここに於て前科者よりも悪人よりも不幸であるかの様に嘆ずるもの もある。近頃のアイヌはシャモへシャモへと模倣追従を事としている徒輩がまた続出して、某はアイヌでありな がらアイヌを秘すべく北海道を飛び出し某方面でシャモ化して活躍していたり、某は○○○○学校で教鞭をとっ ていながら、シャモに扮していたり等々憫むべきか悲しむべきかの成功者がある。これらの贋シャモ共は果して 幸福に陶酔しているであろうか? 否ニセモノの正体は決して羨むべきものではない。先ず己がアイヌをかくし てることを自責する。世間から疑われるか、化けの皮をはがれる。其の度毎に矛盾と悲哀のどん底に落つるか、 世をはかなみ人を恨む。この道をたどった人の到達の点如何に悲惨であるかは説明するまでもないことである。 吾人は自覚して同化することが理想であって模倣することが目的ではない。いわんやニセモノにおいてをやであ る。  けれども悲しむべし。アイヌは己が安住の社会をシャモに求めつつ優秀な者から先をあらそうてシャモ化して しまう。その抜け殻が今の「アイヌ」の称を独占しているのだ! 今後益々この現象が甚しくなるのではあるま いか? 優生学的に社会に立遅れた劣敗者がアイヌの標本として残るのではあるまいか?  昔のアイヌは強かった。然るに目前のアイヌは弱い。現代の社会及び学会では此の劣等アイヌを「原始的」だ と前提して太古のアイヌを評価しようとしている。けれども今のアイヌは既に古代のアイヌにさかのぼりうる梯 子の用を達し得ないことを諸君と共に悲しまねばならぬ。  アイヌはシャモの優越感に圧倒されがちである。弱いからだと云ってしまえばそれまでであるが、可成り神経 過敏になっている。耳朶を破って心臓に高鳴る言葉が「アイヌ」である。言語どころか「アイヌ」と書かれた文 字にさえハッと驚いて見とがめるであろう。吾人はこの態度の可否は別問題として、かかる気づかいを起こさし めた(無意識的に平素から神経を鋭くさしている程重大な根本的欲求の)その第一義は何であろう? ―――ア イヌでありたくない―――と云うのではない。―――シャモになりたい―――と云うのでもない。然らば何か 「平等を求むる心」だ、「平和を願う心」だ。適切に云うならば「日本臣民として生きたい願望」であるのであ る。  此の欲求をはき違えたり、燃ゆる願をアイヌ卑下の立場にさらしたことを憫れむのである。  同化の過渡期にあるアイヌは嘲笑侮蔑も忍び、冷酷に外人扱いにされてもシャモを憎めないでいる。恨とする よりも尚一層シャモへ憧憬しているとは悲痛ではないか。併しながら吾人はその表現がたとい誤多しとしても、 彼等が衷心の大要求までを無視しようとするのでは毛頭ない。アイヌには乃木将軍も居なかった。大西郷もアイ ヌにはなかった。一人の偉人をも出していないことは限りなく残念である。されど吾人は失望しない。せめても の誇りは不逞アイヌの一人もなかった事だ。今にアイヌは衷心の欲求にめざめる時期をほほ笑んで待つものであ る。

「水の貴きは水なるが為めであり、火の貴きは火なるが為めである」(権威)

 そこに存在の意義がある。鮮人が鮮人で貴い。アイヌはアイヌで自覚する。シャモはシャモで覚醒する様に、 民族が各々個性に向って伸びて行く為に尊敬するならば、宇宙人類はまさに壮観を呈するであろう。嗚呼我等の 理想はまだ遠きか。  シャモに隠れて姑息な安逸をむさぼるより、人類生活の正しい発展に寄与せねばならぬ。民族をあげて奮起す べき秋は来た。今こそ正々堂々「吾れアイヌ也」と呼べよ。  たとい祖先は恥しきものであってもなくっても、割が悪いとか都合がよいとか云う問題ではない。必然表白せ ないではいられないからだ。  吾アイヌ! そこに何の気遅れがあろう。奮起して叫んだこの声の底には先住民族の誇まで潜んでいるのであ る。この誇をなげうつの愚を敢てしてはいかぬ。不合理なる侮蔑の社会的概念を一蹴して、民族としての純真を 発揮せよ。公正偉大なる大日本の国本に生きんとする白熱の至情が爆発して「吾れアイヌ也」と絶叫するのだ。  見よ、またたく星と月かげに幾千年の変遷や原始の姿が映っている。山の名、川の名、村の名を静かに朗咏す るときにそこにはアイヌの声が残った。然り、人間の誇りは消えない。アイヌは亡びてなくなるものか、違星北 斗はアイヌだ。今こそはっきり斯く言い得るが……反省し瞑想し、来るべきアイヌの姿を凝視(みるめる)ので ある。 (2587.7.2)