わたしは、神のもの

結城浩

2004年7月11日

教会で礼拝。

今日心に残ったのは「わたしは神のもの」というフレーズである。 わたしは、神のもの。わたしという存在は神さまのもの。 神さまに「所有」されている存在。 神さまに奪い取られたと表現してもよいし、 神さまに買い取られたと表現してもよい。 もちろん、救われたと表現することもできる。 いずれにしろ「わたし」という存在は私自身のものではなく、 悪魔のものでもなく、誰のものでもない。わたしは、神さまのもの。

わたしは、神さまのもの。神さまに買い取られたもの。 支払った対価は、イエスキリストの血である。 これをキリストによる「あがない」という。 わたしという存在は、神さまに買い取られたものであるから、 わたしの命はすでにわたしのものではない。 わたしの人生もまた、わたしのものではない。 恵みとして神さまからお借りしているもの。 だから、自分で好き勝手なことをしてはいけない。

妻は夫のもの。妻は夫に買い取られたもの。 支払う対価は夫のいのち。夫の全存在。 夫は自分のいのちを支払って、妻を買い取る。 これもまた、1つのメタファ。

C.S.ルイスの書いたナルニア物語のどこかに「主人持ち」という概念が出てきたと記憶している。 野生ではなく「仕える主人を持っている」という意味だ。 仕える主人を持っているというのは、しあわせなことである。

念のために書きますが、私は未婚者をあなどっているわけではありません。 結婚したいという望みをいだいている女性の未婚者は、 自分をあがなってくれる(=いのちがけで愛してくれる)男性を求めるわけです。 男性の未婚者は、自分がいのちがけで愛する女性を求めることになります。 いずれにせよ、結婚というものの中心には「いのちによる、いのちのあがない」があるように思います。

話が抽象的になっちゃったな。

「いのち」の代わりに「時間」と読みかえたほうがわかりやすいかも。

自分の時間を何に使うか。それはそのまま「自分は何を愛しているのか」に直結している。 夫は妻のために時間を使う。妻は夫のために時間を使う。 決して二度と戻ってこない今という時間を誰かのために使う。使っても惜しいと思わない。 時間を使ったからといって、その見返りを何か求めるわけではない。 そのような時間の使い方は「愛」にとても近いように思う。

現代は、愛がない時代。 ものはたくさんある。小金を持っている人も多い。でも愛がない。 愛がなくて、みんな右往左往している。

もしかしたら、自分のために時間を使いすぎているのかもしれない。

祈る。神さまに祈る。神さまに祈る時間を大切にしよう。 朝のひととき。夜のひととき。 忙しく自分のために時間を使いたがる自分を戒めて、神さまの前に出る。 全知全能なる神さまの前に、畏れつつも大胆に出て、お話しする。

「神さま。あなたは素晴らしい方。今日という日を与えてくださり感謝します」

「神さま。私はどのように生きたらよいのでしょうか」

「神さま。私にいのちを与えてくださり、ありがとうございます」

「神さま。今日という一日をどう過ごしたらよいですか」

「天のお父さま。わたしの今日の手の業を祝福してください」

「神さま。私が今日出会う人の上に、主が臨んでくださって、平安と喜びを与えてください」

「神さま。ごめんなさい。私の悪い行い、私の良くない言葉、あなたを悲しませる思いを赦してください」

お祈りは、神さまと本音の交わりの時。 誰にも言えない自分の思いを、神さまに向けて正直に吐露する時。 誰にも邪魔されず、静かに神さまと語り合う時。 世のしがらみや、世間体、過去のあれこれから自由になって、裸の、ほんとうの自分を取り戻す時。 どんなにまずいことがあったとしても、イエスさまの血によって、きよめていただこう。 罪で真っ黒になっていたとしても、雪のように白くしていただけるから。 神さまとのお祈りを大切にしよう。

「わたしは、神のもの。ゆえに神に捧げん」(ゴスペル・ソングより)