| ホーム > 日記ダイジェスト > 間違ったことを言う相手をどのようにして受け入れるのか | 検索 | 更新情報 |
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人を受け入れる、ということを考える。 相手の語る内容が自分には「誤っている」と思われる場合がある。 そのようなとき、どうやって相手を受け入れることができるだろうか。 私は「分ける」ことによってではないかと思う。 あなたが語る内容を私は間違っていると思う。いけないことだと思う。 あなたが語る内容を私は受け入れることはできない。 しかし私はあなたという人格を受け入れる。 人格をそっくりそのままよしとし、受け入れる。 あなたが語る言葉を私は聞こう。 しかしそれは、あなたの語る言葉を正しいと私が思うからとは限らない。 私はあなたの言葉を聞こう。 それは、ほかならぬ「あなた」が語っている言葉だからだ。 十分語ってもらい、それを十分聞き、その上でいろいろと語り合おう。 どこに問題があるのか、どうすれば解決するかをいっしょに考えよう。 私は率直に、でも愛をもって私の思うところを語ろう。 人間の力には限りがあるから、すべて解決できるとは限らない。 だから、いっしょに神に祈ろう。 私はそのような態度で人に接することができたらいいな、と思っている。
おうおうにして人は、その思想信条とその人の人格を混同する。 考えが誤っていると思われるとき、その考えではなく人格を攻撃してしまう。 つまりそこには、思想信条と人格が「分かちがたいものだ」という誤解があるのだ (もしかして、日本人がディベートが下手なのはキリスト教の素地がないからかもしれない)。 受け入れる場合でもそうだ。 ああ、いいよ、何でもいいよ、と言って、 誤っていること・悪いこと・正すべきことまでを相手の人格と一緒に受け入れてしまう。 そのことによって二つの弊害がある。 一つは、相手にとっての弊害。 相手の「悪いこと」と「人格」をなおいっそう分かちがたいものにしてしまうという弊害だ。 相手が手に持っているだけだった泥団子を、相手の体全体になすりつけるような弊害だ。 一つは自分にとっての弊害。 相手の人格を受け入れると同時に相手の「悪いこと」までを自分の中に取り込んでしまう弊害だ。
とそこまで考えを進めてきて、イエスさまのことを考える。 イエスさまは、火のように激しい口調で怒られるときと、 限りなく寛大で哀れみ深いときとがある。 それは矛盾のようにも見え、ときには統一感を欠いていると誤解される。 でも実際にはそうではなく、イエスさまは罪をこよなく憎み、 人をこよなく愛しておられるからではなかろうか。 「罪」と「人」とを分けて考えるのは、実はとても大切なことではあるまいか。
(1999年8月22日の日記から)