思いつくまま書き、編集なしの自動書記

結城浩

[CR](p) たんねんに文章を書いているのだが、 どんどん長くなっていくのは何とかならないものだろうか。 まだ本全体の半分も書いていないんだよなあ…。 現在、おおよそ18分の7くらいだろうか。 がんばって書いていると、またおててが痛くなってきちゃった。ふえーん。 これはきっとお休みしなさい、ということなのだろう。 痛くなるのは左手の小指ですね。これはCTRLキーの打ちすぎ。

町のどこにいてもクリスマスソングが聞こえる。 そういえば、 デザパタ本のときも、 スレッド本のときも、クリスマスをまたがって書いていたなあ。

以下、思いつくまま書き、編集なしの自動書記。

文章を書いたり、本を書いたりするのって、近道はないなあ。 何だかとっても泥臭い。ハレとケという分類からいえばケですね。 毎日の生活の中で書かなければ書き上げられない。 環境がととのって、準備がととのって、気分も盛り上がって… のように条件がととのうのを待っていたら、いつまでたってもできない。 とにかく、現状の装備でかまわないから、武器を取り、 自分は戦うのだ! (いや、戦わなくてもいいんですが、まあそういうことです) と決心するのがとても大事だ。 信仰と似ている。結婚と似ている。まず意志が大事。 環境が整えば「自然と」何かができあがるわけはない。 もしそのようにしてできあがるものなら、それは私がやらなくてもできあがるものだ。 何かを作るというのは、不自然さをともなう。 不自然さというのとも違うな。流れに逆らう部分がある。 なんとなあくなんとなあく流れにまかせて進むのではなく(そういう時もありますが)、 適切に判断して、ぐっ、と舵を取る瞬間がある。 いや、そうじゃなくて、こうしなければだめだ、と思う瞬間がある。 判断して、決断して、意思決定して、ぐっと力をこめる瞬間がある。 毎日の中にありながら毎日に流されない工夫が必要だ。 ぐいっと、がりっと、ひっかかる何かが必要だ。 常識的な利害得失の思考を越えるときが必要だ。 せっかくここまでやったんだから、といわず、もう一度最初からやってみよう、とかね。 これまでいつもこうやってきたから今度も、と言わず、本当によい方法は何だろうと思い返す、とかね。 そこには意志があり、自由がある。 その中にあっても、 野放図にならないようにするために、 きちんと神さまの権威を意識することは大事だ。 そこが基準だからだ。 「罪」というのは「的はずれ」という意味だっただろうか。 自分の人生を的はずれにしないためには、神さまの権威を認め、 自由意志による服従が必要だ。自分の自由意志によって聖書に従うことが必要だ。 その一方で、自分をこの世の歯車におとしめないために、 きちんと判断しなければならない。 毎日起き、仕事をし、他の人とのインタラクションがあり、眠る。 その中にあって、自分がこの世にいま生きている意味をきちんと知る必要がある。 祈りが必要だ。祈りもとめることが必要だ。 自分が求めているものを、神さまに求めることが必要だ。しかも熱心に。 神さまの存在を喜び、神さまに感謝し、さらに神さまに自分を開いていくことが必要だ。 自分の中からよいものが出てくるという意味ではない。 自分を開き、神様に入ってきていただく。神様にきよめていただく。 神さまに導いていただくことが必要だ。 そして。それも機械的にするのではない。 神さまは私たちを生きた存在、かけがえのない存在として愛していてくださる。 だから十把ひとからげではなく、歯車のようにではなく、データを処理するようにではなく、 神さまは、私たち一人一人を取り扱ってくださる。 そのことを認め、感謝しよう。 自分が土の器にすぎないことを認めよう。 しかし、その器は神さまが御みずから作られたものだ。主はよき陶工、私たちは土の器。 けれど土の器であっても、そこに神さまがすばらしい食べ物を盛ってくださる。 かぐわしいぶどう酒を注いでくださる。そのことを期待し、感謝しよう。 毎日毎日は流れていく。昨日と違わぬ今日、今日と違わぬ明日、と考えがちだ。 しかし、朝ごとに世界は新しくなる。 神さまが世界を新しくなさる。毎日毎日はかけがえのない特別な日。 神さまが素晴らしいことをなしてくださることを大いに期待しよう。 まるで自分がこの世にはじめて誕生したような目をもって、 まるで自分が明日はこの世に存在しないかのような目をもって、 この世を、今日という日を見てみよう。 この世をおつくりになり、 いま、私たちをここに住まわせてくださる神さまに栄光あれ! 信じるものすべてに永遠の命を与え、 わくわくするような冒険の生涯を与えてくださるイエスさまに栄光あれ!

(2002年12月17日の日記から)

豊かな人生のための四つの法則