知っておきたかったこと

結城浩

2005年1月27日

Paul Grahamの「知っておきたかったこと」という文章を改めて読む。 これは読む価値のある良い文章だと思いますね。 すべてに賛成するわけではありませんが、 いろいろと考えるきっかけを与えてくれる文章だと思います。 翻訳してくださったShiroさんに感謝します。

で、私自身の話。 高校時代に「知っておきたかったこと」って何だろう。 と考えてみたのですが、実はあまり思い浮かばない。 これを知っていたら、あのときのあのような失敗はしなかっただろうに、 ということはもちろんたくさんあります。 でも、今からあの時代に戻り、その失敗を回避したほうがより幸せになっただろうか、 と自分に問うてみると、そう簡単に結論は出ないように思うのです。

逆に「知っておいてよかったな」と思うこともたくさんあります。 でも今度はその「知っておいてよかった」ということを「もっと早く知っていたら、より幸せだったか?」と考えてみます。 それはやっぱり違う。 物事を知るにはやはりタイミングというものがある。 音楽と同じで、適切なタイミングで適切な音を出すから音楽が成り立つ。 早ければよいというものではないように思う。

(書いていて、あったりまえのような気がしてきました。でも続けますね)

もし、私が「高校時代の自分」に何か語るとしたら、どんなことを言うだろう。

  • がんばるのはよいけれど、つかれたときには、やすんだり、さぼったりしてもいいんだよ。
  • 人生を一本道のように考える必要はないんだよ。トラブルに見えても、それが新しいチャンスかもしれないよ。

そんな感じかなあ…。

以下、思いつくままに。

信仰というもの —— 「信仰」という表現に抵抗があるなら「人生観」でもよいけれど —— は、想像以上に重要な意味を持つ。

人生観とは何か。

何が良いことであり、何が悪いことであるか。 人生というものをどのように考えているか。 自分はどのような道を歩いて行きたいと思っていて、いまそれができているかどうか。 何が本当に大切なことであるか。 自分はどういう存在であり、いまここに生きている意味は何か。  … 大雑把にいって、それが人生観というものでしょう。

四六時中そんなことを考えて生活はできないけれど、 人生の要所要所では、上のような問いに何かしらの答えを出さなければならない局面が出てきます。

たとえば、 自分の進路を考えるとき。 就職先を考えるとき。 結婚について、子供について、住まいについて考えるとき…。

そんなとき、自分なりの「答え」を出さなければならないことがあります。 眉間にしわを寄せて生真面目な答えを出さなければならないわけではないし、 自分を客観視するユーモアの感覚がないと悲惨ですけれどね。

結婚について考えるときは、特にそう。 お付き合いしている相手といろいろと話をする。 そのときって、正面切って「あなたは人生をどのように考えていますか」と聞くことは少ないかもしれないけれど、 真剣に結婚を考える相手には、結果的にはそれを問いたくなるんじゃないだろうか。 だって、結婚をするというのは人生の大半を一緒に過ごす、同じ道を並んで歩く、ということですよね。 だとしたら、相手が人生というものをどのように考えているか、 (そしてもちろん、相手が自分をどのようにとらえているのか)ということを知りたいと 思うものではないのだろうか。そうでもないのかな。 そういうベイシックな問いっていうのは、顔かたちやスタイルよりもずっと大切じゃないかと思うのです。