ネットワークをめぐって

結城浩

1997年の日記からの抜粋です。

〔注:現在すでに終了したものについての言及もそのまま残しています〕

目次


ゆるしのページをめぐって

聖書には、罪を告白すれば、その罪は神がゆるしてくださる、と書いてあります。 (ヨハネの手紙第一 1章9節 参照)

そこで結城は、そのための場「ゆるしのページ」を作りました。 自分の名前も書かず、Emailのアドレスも書く必要はありません。 ただ、自分の言葉で、自分の罪を神さまに向かって告白するのです。

神さま。どうぞ、このページをあなたの御用にお使い下さい。 この小さき者が自分の力を誇ったり、自分に栄光を帰すことのないように戒め、 あなたにあってへりくだる者としてください。 イエス様の尊い御名によって祈ります。 アーメン。


語らぬ勇気をめぐって

私はおしゃべりだから、語る勇気よりも語らぬ勇気の方が必要だ。

何かを語る(口で話す、あるいはキーボードで文字として書く)前に、 これを語ることは「よいこと」だろうか、と自問することがよくある。

これを語るのは、

・単に知ったかぶりをしたいからなのか、
・あるいは相手をやり込めたいからなのか、
・それとも人を励まし、自分の徳を高める「よいこと」だからなのか、

と自問する。

真実、あるいは事実だからといって いつも語っていいとは限らないと思う。 やはりそこには「愛」がなくっちゃ。 みなさんどう思いますか。


掲示板の発言削除をめぐって

もし、結城の掲示板に反社会的(と結城が判断する)サイトの広告が書き込まれたら、どうするか。 いろいろ考えておく必要があるかもしれない。

みんながみんな寸分違わない意見を持っているというのはありえないし、 そんな状態ではつまらないのかもしれないが、 その場の雰囲気をあまりにも破壊する(と結城が判断する)ものに ついては思い切った処置をしなくてはいけない、と思う。

幸いなのはここが個人サイトであることだ。 教会のオフィシャルサイトと、個人サイトとでは、 「発言削除」の意味が少し違うように思う。

傲慢に聞こえるかもしれないが、 掲示板の上の発言を削除するかどうかは、 結城の判断に任されているのである。

静かな喫茶店にブラスバンドが演奏しながら入ってこられても困るのだ。 店主が「失礼ですがお引き取りください」と言わずに誰が言おうか。

しかし、このときもまた、神さまへの祈りが必要なのはいうまでもない。 どんな行為も、神さまの方に向くことになるならよいが、 神さまから離れることになるなら、よくないことだと思っている。


掲示板の匿名性をめぐって

「掲示板」には、たいてい名前とメールアドレスとかを入力して発言します。 発言した自分の身元が他の人に明らかになると都合が悪いときに、 メールアドレスを書かなかったり嘘のアドレスを書けばいいと思いがちです。 でもそうとは限らないということに気がつきました。

これは掲示板のソース(HTMLのソース)を見ていて気がついたのですが、 掲示板のCGIプログラムによっては、発言の前や後に 「発言者のIPアドレス」をHTMLのコメントで記入していたりするのです。

「発言者のIPアドレス」というのは、メールアドレスとは異なりますが、 発言者の会社やプロバイダを特定することができる場合が多いです。 (ファイアウォールの中は別だが、発言者の候補が限られている場合には特定されてしまいます)

上記のことは何を意味しているか。

たとえある人が「匿名」として書き込んだとしても、 その掲示板を見ることができる人は、誰でも(管理者以外でも)、 ちょっと知識があれば、

・その人がどこの会社からアクセスしているか、
・どのプロバイダからアクセスしているか、
・以前発言した人で同じ人がいないか、

判断できる可能性がある、ということを意味しています。


掲示板での喧嘩をめぐって

一般のWeb上の掲示板では、よく「喧嘩」がある。

難しい議論をしているようなのだが、 相手と議論して実のある成果を得ようとかいう意図はあまりなく、 単に相手を罵倒したり、言葉じりをとらえてあげつらったり、 相手の人格を否定するような言葉をたくさん並べたりしている。

非常に不愉快なのだが、自分の心を深く探ってみると、 そのようなドタバタ騒ぎを楽しむ(と言って悪ければ物見高い気分で見ている) 気持ちもある。 私のそのような気持ちはあることは認めた上で、 あまり育ってほしくない気持ちだなあ、とも思う。

インターネットの掲示板や会議室やメールでは、 非常に非常に頻繁に「喧嘩」が見られる。 インターネットも普通の社会の一つという証拠かもしれないけれど。

結城の掲示板では、このような「喧嘩」はほとんど起きない。 感謝なことである。

もし結城のサイトで同じような「喧嘩」があったら、 管理者として私はどうするか、を考えてみた。 秩序を守るいい方法としては、二つある。 「無視する」というのと「削除する」という方法だ。 (もちろんどちらの場合でも、相手のためにそっと祈るのは必要だが)


キリスト教関係のホームページ作成をめぐって

WWWを使ってキリスト教のサイトを作る際の留意点のメモ。

・教会の公式ページなのか、非公式ページなのか。
・教会の紹介・案内にとどめるのかWeb上での直接の伝道までを目的とするのか。
・更新頻度は?
・ページ構成は?
  ・ホームページ
  ・教会の紹介
  ・牧師の紹介
  ・連絡先(メールアドレス・住所)

ホームページ作成手順

・ページサンプル作成
  文章や画像はダミーのものでよいけれど、
  構成が本物と同じになっているもの
・素材の準備
  文章依頼、文章校正
  画像(デジカメなどでの撮影、イラストなど)
・動作試験
  実際のプロバイダに転送
  正しく見えるかどうかの確認
・告知
  Yahoo!他のサーチエンジンに登録
  教会の週報などにURL掲載
  教会のページの場合、内容に関して牧師先生に監修していただく。

いつも、祈りつつ。


メタ日記をめぐって

日記に「感想を一言」というコーナーを設けたら、 さっそくみなさん感想を送ってくださる。 うれしい限りである。 このCGI(Webページから感想を送る仕組み)は、 「結城浩へのフィードバック」と同じものを利用しているのだが、 これまで「日記に対する感想」をいただくことはとても少なかった。 やはり目の前に書く欄がある方が利用してもらえるらしい。 いずれにしろ、感謝します。

え? どうして「メタ日記」なのかって? 「日記についての日記」だから「メタ(meta)日記」なのです。 (こういう説明を書きたくなるから、私は文学者ではないのですね)


文字ばかりのページをめぐって

ある方から

 「どうして結城さんのページは文字ばかりなのですか」

という質問(意見?)のメールをいただく。 それと前後するように、

 「絵がないのにこれほど感動するページはめずらしい」

という感想のメールをいただく。

私の答えは、だいたい

(1) 絵よりも文字が好き
(2) 文字だけの方がディスク容量が少なくてすむ
(3) 文字だけの方が早く表示できる

ということになる。あ、それからもちろん

(4) 結城はあまり絵が得意じゃないし、デジカメも持っていない

というのもありますが。


つづりの間違いをめぐって

かっこいいホームページは誰しも作りたいものである。 でもせっかくキメたいところで凡ミスがあってはだいなしです。 以下、よく見かける間違いです。 (もしも結城のサイト中に類似のミスがあったらぜひ教えてくださいね)

wellcome → welcome (ウエルカム、ようこそ)
bord → board (ボード、掲示板)
brouser → browser (ブラウザ)
navigater → navigator (ナビゲータ)
magagine → magazine (マガジン)
meil → mail (メール)
掲示版 → 掲示板

programing → programming (プログラミング)
(辞書で調べたところ、programing というつづりも正しいらしい)


他者の存在をめぐって

温泉でのんびり。 湯船で手足をゆったりのばしながら、 「他者」について考えていた。

気が滅入っているとき、誰かとおしゃべりすると気が晴れる。 誰かにメールを書くと、落ち着く。 掲示板に一言書くと、ほっとする。 それっていったい何だろう。

何だかよどんでいたものが流れはじめたり、 詰まっていた何かがすぽっとはずれる、 そんな感じなのだけれど。

問題なのは、気持ちが悪循環に陥っているときは、 ここで他の人とおしゃべりすれば気が晴れる、 と分かっているのに、そうしたくない時もあるってことだ。

常に関わってくれる他者の存在は、 なんとありがたいことか。 例えば家内や息子。 コリカタマリそうな心を揺さ振ってくれる。

ゆったり過ごしながら、 そんなことを考えていた。


検索機能をめぐって

結城のサイトには「検索」機能が一応ある。

 (一応、と言ったのはスピードが非常に遅いからと、漢字コードの変換をしていないためにミスが多いからだ)

検索機能のログを見ていろいろ分かったことがあった。

1.人名の検索

チャットや掲示板で見かけた人の名前を検索する例が多かった。 これは結城の想像外のことであった。 この結果をもとに Who's Who (人名録) を作った。

2.悩みの項目の検索

恐らく「祈りの小部屋」の祈りを検索したのだろうが、 悩みの項目で検索する例が多く見られた。 「不倫」「失恋」「セックス」「不安」など。

3.プログラムの題材の検索

プログラムの題材、プログラムの話題の検索も多かった。 これはまあ当然であろう。 「DDE」「desktop」「暗号化」「通信」など。

4.検索のミススペル

それほど多くはないが、検索文字列のつづり誤り(スペルミス)が見られた。 これは対処するのは難しそうだ。

上記の2と4に対処するために、 「検索」ではなく、 「索引」があった方が便利なのかもしれない、と思った。


Knuthからの手紙をめぐって

Donald E. Knuth から手紙をいただいた。

Knuth が作った乱数プログラムのちょっとしたバグを見つけて 送ったメールへの返事である。 電子メールではなく、サンフランシスコの消印がついた封書だ。

Thank you very much for taking time to write...

というお礼と、このバグに関する情報が書かれている Knuth の直筆(手書き)に感動。

残念ながら一ヶ月前(惜しい!)にそのバグは他の誰かに発見されていたようだが、 この手紙は宝物である。


チャットをめぐって

チャットでの人々の行動を見ていると、 「どれどれ、まず過去ログを…」を見に行く場合がある。 自動更新のチャットだと、以前のログを読んでいる最中にパッと 再読み込みがかかってしまい、落ち着いて読んでいられない。

そこで、チャットに自動更新を「自動更新停止」する機能をつけた。 発言するフレームで「自動更新停止」リンクをクリックすると、 ログ表示フレームの自動更新をやめるのである。 「開始」リンクをクリックすると、自動更新を再開する。

一時停止していると、誰かが発言していても気が付かないので、 「現在一時停止中だよ」ということがはっきりわかるように、 背景を白にするようにした。これはなかなか具合がよろしい。 「自動更新停止」をクリックすると、 まるでチャットが凍り付いたように白くなる感じがよく出ている(自画自賛)。

結城のチャットや掲示板に来る方々は、 とても感じがよい人が多いように思う。(身びいきか?(^_^)) 感謝なことである。 感じがよい、っていうのは、単にイイコであるとか、 ユートーセーであるというのではなくて、 それぞれが豊かな個性を持ちながら、 相手への配慮を忘れていないということである。

チャットを構成しているプログラム、 というのは単なる骨組みに過ぎない。 チャットに集まる人こそが、肉であり血である。 すなわち、みんなが書く文章こそが、命なのだ。

でも、それって、 すべての技術に言えることかもしれない。

主よ、どうぞ、チャットと掲示板をあなたの御用にもちいたまえ


返事をしないことを保証するコーナーをめぐって(1)

いま考えているのは、

「返事をしないことを保証している文章を送るコーナー」

というものだ。

みなさんも経験があるとおり、 何だか調子が悪いとき、人としゃべったり、 メールを書いたり、掲示板に書いたりすると、 ちょっと気分がよくなったりするものだ。 面白いのは、メールを書いて、返事をもらう前に (つまり書いて、出した時点で) すでに気分がよくなるということ。

だったら、最初から「きちんと読まれることは保証されるが、 返事は絶対にこない」という形式の手紙も 何か意味があるんじゃないかな。 というのをずっと以前から考えていた。

「ゆるしのページ」はそれに近いかもしれない。 でもあそこは「神さまに」「ゆるしを乞う」というコーナーだから、テーマが限定されている。 それに、無記名とはいえ、Webで公開されているから、書けないこともいろいろある。

でもいま考えているコーナーは違う。 書き手は、結城あてに文章を書く。 もちろん内容は自由だ。長さも自由。 結城は返事を書かないから、 メールアドレスを書いてもらう必要はない。 仮名すら書いてもらう必要はない。 書いてもらってもいいけれど。

書き手は好きなことをWeb上で書く。 ぐちを書いてもいいし、誹謗中傷を書いてもいい、 いわれの無いことを書いてもいいし、 のろけ話を書いてもいい。 とにかく、完全に制限なし。 制限といえば、文字コードに半角カナを使わないことと、 何メガにも渡る文章を書かないことくらいか(^_^)

書き込まれた文章は、まとめてメールの形になり、 自動的に結城宛てに送られる。

結城はそれを受け取って何をするか。 送られた文章を「読みます」。 返事は書かない。 送られてきた文章に「ぜひ返事を下さい」とあっても 返事は書かない。Webで公開することもしない。 掲示板に書くこともしない。 でも読む。丁寧に読む。 内容によっては祈るかもしれない。 (結城の心に納めておけない内容は神さまに受け取ってもらうしかないから)

気になるのは「秘密は守られるか」ですね。 結城の姿勢としては、 知り得た内容を公開したり 他人に明かしたりしないよう努力する、というものだ。 ただし、家内は除く。 私の家内には内容はほぼすべて話すだろうから。

うん、だいぶイメージが整理されてきた。 結局、私が作りたいコーナーというのは、 ある「場」を作りたいのだ。 その「場」というのは、 公開されることなく、好きなことを言える(書ける)場。 批判も、賛同もなく、 ただただ「聞いてもらえる」(読んでもらえる)場。 そういう場を作りたいのだ。

どうやら結城は、 「あなた」が「今」語っている「言葉」を そっくりそのまま受け入れますよ、 という態度をとりたいらしい。

(本当は、リアルタイムで、あなたが語っている言葉を うなずきながら聞きたいのだが、それは結城の現在の容量を越えている。 将来、何らかの技術支援によってそれが可能になればうれしいが)

こういう「場」を作るためのCGIはすぐ作れる。 (例えば、フィードバックのコーナーや、  祈りのメールを送るコーナーを修正すればよい)

問題はだ。

こういうコーナーには 何という名前をつけたらいいだろう?


返事をしないことを保証するコーナーをめぐって(2)

昨日の日記で名称についての質問を提示したところ、 複数人から「ロバの耳」がいいとの示唆をうけました。

「ロバの耳」という名称のサイトがあるかどうか検索して くださった方がいらっしゃいました(感謝します)。 予想されることですが、存在しました。 言いたい放題を書いてWebで公開するというページが複数。 そして不登校関係のページが一つ。

結城の「ロバ耳」と同じコンセプトのページはまだ見つかっていません。 コンセプト?
・何でも自由に話していい。
・返事は出さず、公開もしない。
この二点ですね。

公開後、すぐに複数人の方々からのお話を聞くことができました。 (もちろん内容は公開しません(^_^)) さっそくご利用くださってうれしいです。

ということで「ロバ耳」をどうぞよろしく。


トーキー!をめぐって

インターネット上で高速かつ安全(secure)にチャットができるソフト「トーキー!」を作った。

普通のチャットはさまざまな人の目にさらされる。またWeb上のチャットはスピードが遅い。 特にテレホーダイアルの時間になると「重く」なったり「落ち」たりする。

トーキー!は、特定の相手と一対一で、非常に高速にメッセージのやりとりを行うプログラムである。 Webのチャットのように「重くなる」ということはほとんどなく快適である。

トーキー!は、通信内容が暗号化される。たとえクラッカーによって通信内容が傍受されたとしても、 その内容は解析が極めて困難である。

トーキー!は難しい設定はまったくない。インターネットを使える状況で、 talky.exe という実行ファイルを動かせばよい。

例えばロミオという男性と、ジュリエットという女性が話をしたいとする。

二人のうちどちらか片方が「サーバ」になる。 ロミオがサーバになるとして、トーキー!のメニューで「サーバになる」を選ぶ。 サーバになると「トーキーコード」と呼ばれる文字列が生成されるので、 ロミオ君は、メールやチャットでそのトーキーコードをジュリエットに伝える。

 ジュリエットへ:トーキーコードは「T-1234-5678-01」です。

ジュリエットはトーキー!のメニューで「相手につなぐ」を選ぶ。 するとトーキーコードを入力する画面になるので、 ロミオから教えてもらったトーキーコードを入力する。

これで通信ができる状態になる。あとはチャットと同様に文章を入力すれば、 リアルタイムで対話ができることになる。


プライバシー保護をめぐって

結城のページには、たくさんの読者参加のコーナーがあります。 特にWebページ上で文章を書き込み、送信するコーナーでは、 プライバシーの問題はどうなっているかは気になるところですね。

掲示板やチャットはまだよいとして、 「ゆるしのページ」や「祈りのメールを送る」や 「ロバ耳」は、プライベートな内容も書き込むからです。 管理者である結城にすら発信者を特定してほしくない 場合が多いと思います。

結論から言えば、 「ゆるしのページ」や「祈りのメールを送る」や「ロバ耳」については、 個人を特定するような仕組みは結城は入れていません。 ということになると思います。 技術的にはCGIにアクセスした人のIPアドレス(ネットワーク上でそのマシンを特定できる情報)を 記録することもできますが、それはしていません。

ただし、プロバイダの管理者が悪意を持って調べる気になれば、 IPアドレスの特定は技術的に可能であると思います。 もっともプロバイダの管理者が悪意を持っていたら、 (暗号化されていない)メールは読み放題ですから、 CGI以前の問題でもありますが。

「ロバ耳」は利用者がたくさんあります。 名前を書いてくださるので書き手が特定できる場合もありますし、 文体から想像する場合もあります。 しかし、まったく書き手がわからない場合も多くあります。 名前を書いてくださった場合でも、 それが本人かどうかの確認はしないしできないので、 そのつもりで読んでおります。


「つい一言」をめぐって

ふらふらと、よその掲示板を見ていて、 キリスト教に関する批判や、 新興宗教の人の書き込みを読むと、 つい書き込みがしたくなる。 キリスト教擁護の文章を書いたり、 とんでもない神観について反論したくなるのだ。

もちろんそれが必要なときもあるのだが、 明らかにそのような反論が自分の今なすべきことでない場合も多いように思う。

でも、そういう場合、 書くことよりも書かないことの方がずっと難しく、 心のエネルギーを必要とする感じがする。 「つい一言」言いたくなるのだ。

おそらくは自分の高ぶりのゆえに。

神さま。どうぞ私がなすべきことをなすことができますように。 自分のちっぽけなプライドや見栄のために、 あなたから与えられている時を無駄にすることのないように。 イエスさまの御名によって祈ります。 アーメン。


文章書きをめぐって

私は文章を書くとき、下書きなしでいきなりコンピュータに向かう。 エディタで文章を入力しながら考えを進めていく。 コンピュータは自分の思考の記録装置でもあり、 また鏡のようなものである。 コンピュータに話しかけながら文章を書いているような感じだ。

どんどん書いた後はプリントアウトして紙の上で読み返す。 赤いボールペンを使って紙の上で修正していく。 修正がたまったら、またエディタに向かってその修正をファイルに反映する。 そんな風にして何度も何度も読んでは修正、修正してはプリントアウト、 というセッションを繰り返していく。

最初に書く文章はごつごつの岩のようなもので、カドばかりある。 何度も読み返して「ひっかかる」部分を言い換えたり 書き加えたり、とりのぞいたりしているうちに だんだんまるい感じになっていく。 そのころになると、読むのも書くのも楽しくて楽しくてしかたがなくなる。


『Perlで作るCGI入門』基礎編の執筆をめぐって

今回の本のテーマはCGIの入門だから、平易な表現を心がけている。 文章を書く人はよく知っていることが、難解な技術書よりも入門書の方が難しい。 使える言葉も限られるし、正確に書こうとすると複雑になりすぎるからだ。 嘘にならない程度に話を整理しなくてはならない。 (ときにはわかりやすくするための嘘を書いてもいい) いいたいことはまず大胆に短く言う。 それを読者に覚えてもらうためだ。 くどくど説明するのは後でいくらでもできる。 それから、楽しくなくっちゃ。 自分にもできそうだな、という夢を描かせなくちゃ。 実は技術的な内容よりも「うん、このくらいなら自分もやってみたい」と 思っていただくことが大切なのかもしれない。 もちろん、だましてはいけない。 真実から遠く離れたところに読者をミスリードしてはいけない。

それって神さまの話をすることと似ている。 教派の違いとか、細かな儀式や習慣の違いをくどくど説明したりしても、 (必要なときには必要だが) 知識は増えるが感動はない。 理解は深まるかもしれないが、心に平安はこない。 話をよく整理しよう。いいたいことはまず大胆に短く言おう。 「神は愛です」 「イエスさまはあなたのことを愛しているんです」 このことを言わずして、 世界の存在を、十字架を、聖書を、すべての儀式や、教義を語っても 混乱してしまうのではなかろうか。 もちろん、だましてはいけない。 真実から遠く離れたところに聞き手をミスリードしてはいけない。

もちろんイントロはいろいろある。 そのとき、そのときに応じた短い言葉がある。 そのときに応じた言葉を見つけて語るのは、 物書きの、そしてクリスチャンの仕事かもしれない。

私は幸福。 CGIの本を書くという機会に恵まれ、そしてその本を通して、 わたしなりに、神の愛を語ることができるから。 「CGIの本がなぜ神の愛を語ることなのだろう?」 もちろん、CGI本の中には神さまもイエスさまも書かれない。 しかし、私の本の最終章は「愛」について語ることになるはずだ。 お楽しみに…。


原稿書きをめぐって

原稿書きをしているといろんな思いがやってくる。 何でもっと早く書き始めなかったのかという気持ち。 いまここでこんなに詳しく書いていたら、ボリュームが増えすぎるという気持ち。 他のところの「あら」が気になり、全部書き直したくなる気持ち。 とんでもない間違いをしているのではないか、という気持ち。 ああ、何て素晴らしい文章だろう、何てわかりやすい文章だろうという気持ち。 ああ、こんな文章では読者が混乱するばかりだという気持ち。

そんな思いの渦の中にあって、 とりあえず、次の一文をタイプしていく。 結局のところ、いまできることをやっていくしかないのだ。

気持ちが乗っているうちにどんどん書いてしまおう。

仕事のはじめに少し祈る。 実際のところ、仕事をする上で祈ることはとても大事なのだ。 私は自分がタイプしている言葉がいったいどこから生まれているのか知らないからだ。 少しでも読みやすい文章が書けるように、 少しでも正しい知識が読者に伝わるように、 少しでも読者に「わかった」という喜びが生まれるように…。

そんな風に祈って仕事をすることができるというのは、 実はそれ自体が大きな報酬なのかもしれない。


言葉と偽善をめぐって

「言葉」特に「文字」が主な手だてであるネットの社会では、 掲示板での議論は難しい。

理由を少し考える。
・自分の使っている言葉の意味が、相手と同じ意味とは限らない。
・言葉の意味内容は建設的だが、その「書き方」にカチンとくる。
・その他、たくさんありそうなので、省略。

でもこれって、掲示板に限らないねえ。 メールでもチャットでも、電話でも、直接会う場合でも… 要するに、人が集まるところでは いつでも生じることだな。

(話は飛びます)

言葉って、難しい。 嘘がつけないから。 もちろん、一時的な嘘はつける。 でも、永続的な嘘はつけない。 必ず、その人の人となりがどこかに出てしまう。

逆も言える。 「ふり」をしているとその通りになるということ。 親切にしたいと思ったら、親切な言葉をかけてやるとよい。 前よりも親切にするのが楽になる。 逆に、悪ぶったふりをしているとそのうち本当のワルになれる(なってしまう)。

親切な言葉をかけてやることは、 最初は「偽善者」っぽく感じるかもしれない。 「違うの、違うの、私はそんなに立派な人間じゃない」 って声が聞こえてくる。 でも…

胸に手をあててよく考えて、 その人に親切にしてあげたいと思っているのなら、 その「ふり」から始めてみるのもよい。 そのうちに、自分のことを忘れてしまうときが来るかもしれない。

「私は立派な人間だ」というのも、 「私など、つまらない人間でして、えへえへ」というのも、 どっちも傲慢なのかもしれない。 自分のことしか見ていないからだ。

本当に楽しんでいるとき、私は私を忘れている。


プログラミングの学び方をめぐって

昨日そらまめ氏と「トーキー!」でおしゃべりしたとき、 VC(Microsoft Visual C/C++)の学び方の話題になった。

一般的に言って、結城のプログラミングの学び方は次のような 流れを取る。私はこの手順を無意識のうちにやっているらしい。 独学者向けの方法でもあり、お金をかけない(でも時間はかかる)方法でもある。 時間がかかって苦労した分は、(6-d)(6-e) に生かせるということになる。

(0) 前準備
 (0-a) 少し人に聞く
 (0-b) 少し雑誌や本を読む

(1) その言語が動く処理系を入手する

(2) 既存のプログラムを動かす
 (2-a) 付属しているサンプルプログラム
 (2-b) 雑誌などのプログラム

(3) 少し修正してまた動かしてみる
 (3-a) 表示文字列を変える
 (3-b) 機能を削除する
 (3-c) 機能を追加する

(4) ゼロからプログラムを作って動かしてみる
 (4-a) 機能がほとんどないもの
 (4-b) 自分が作りたいプログラム(のサブセット)
 (4-c) 大き目のプログラム

(5) わからないことがあったら
 (5-a) 考える
 (5-b) 人に聞く
 (5-c) ヘルプを読む
 (5-d) 回避策があったらよしとする
 (5-e) 「バイブル」と呼ばれる本を読んでみる

(6) 人に説明する
 (6-a) 知り合いに説明してみる
 (6-b) 奥さんに説明してみる
 (6-c) それで仕事をやってみる
 (6-d) 雑誌に原稿を書いてみる
 (6-e) 本を書いてみる


編集者との読み合わせをめぐって

一日中ひたすら自分の書いた文章を読み続ける。 読み読み読み読み読み読み読み読み朱入れ読み読み読み読み。

夕方から編集の方と一緒に読み合わせ。 本の一ページ目から最終ページまで一ページづつ一緒に読んでいく。
ここの「が」は「は」の方がいいか、とか
ここの文章は主語が混乱している、とか
ここの二重引用符は間違いじゃないか、とか
ここのフォントはクーリエじゃないか、とか
ここの見出しはページ末にくるのはいやだ、とか
ここに11行追加するのはつらい、とか
ここの二文のつながりは不自然、とか
まあ、どうでもいいようなことも含めて、 気になるところを著者・編集者双方から出し合ってあーだこーだ言う。 担当の編集者(編集長)のすばらしいところは、著者(つまり私だ)が 「うーん、じゃあ、ここはこうしよう」 と言うところをぐっと受け入れてくださるところだ。 感謝。


ネットサーフィンとプライバシーをめぐって

ネットサーフィンしていると、 自分が情報を受け取っているような気になるが、 実際には情報提供もしていることになる。 いかがわしいサイトや、危険なサイトに近づかない方がよい理由の一つ。

どんな情報が相手(サーバ)に分かってしまうか? メールアドレスは相手にわからない。 IP アドレスや直前に見ていた(リンク元の)ページはわかってしまう。 IP アドレスがわかると、プロバイダもほぼわかる。 ブラウザの種類はわかってしまう。 (Internet Explorer/Netscape Navigatorの区別だけではなく、非常に細かいバージョンまで) それと同時に Windows か Macintosh かどうかもわかってしまう。