父との対話をきっかけにして思うこと

結城浩

2000年1月11日

義父の帰天にさまざまなことを思う。

義父の会葬に参加した実父とも電車や宿でいろいろ話す。 実父についてはこれまでも何回か書いてきた。

実父は、 勉強家で、Excelの知識は私よりもはるかにある。 凝り性で、音楽ソフトで楽譜を入力してカラヤンのCDの演奏と合奏させて楽しんでいる。 教育家で、自宅を使って子供たちにコンピュータを使った学習塾を開いている(ちなみに実母も、自宅でワープロを教えている)。 最近のコンピュータの参考書は、派手だがわかりにくいものが多い、と言っている。 私が書く書籍は父から高く評価されている。うれしい。 電車の中で、父から「教えるということ」についていろいろ教えてもらう。 私がこのホームページ運営や、プログラム書きや、本書きでやっていることというのは、 父がこれまでやってきたことととてもよく似ている、ということを再確認。 いわば、私なりの(また現代という時代なりの)バリエーションとも言える。

あ、それが不満なわけではなく、何というか…ああ、私はこの親の息子なのだなあ、 という思いでしみじみとするのである。 母からは、人当たりの柔らかさとコミュニケーションの力を受け継いでいるし、 うまく親の遺伝子がブレンドされて「私」を形作っているものだなあ、 などとうれしくなる。

こんな風に自分をとらえることができるようになったのは、 年齢もあるし、イエスさまの恵みのゆえだなあ、と思う。 20代の神経質でピリピリしていた時代と、30代のだいぶゆったりした時代を比べると、 ぜんぜん世界が違うなあ、と思う。

宗教の議論をネットですると、 水掛け論と不毛な議論で終わることが多い。 議論で救われる人は少ない(と思う)。 教義に関する議論もとても大切なことだけれど、 もしまだイエスさまの救いを信じる信仰を持っていない人がいらしたら、 本当の神様や、 自分の本当の姿というものに思いを向ける機会を若いうちに持っていただきたいなあ、 と心から願います。 いまの世の中うさんくさい宗教もたくさんありますから注意が必要ですが。

自分の人生をどのように構築すべきなのか、 何を土台にし、何をその上に積むのか、 というのを考える機会は早いうちに持つべきではないかなあ、と思います。 私は、やっぱりその土台というのは「聖書」だと思うのです。 時を越えて存在し、時代がどんなに揺れ動いても変わらずにある神の言葉「聖書」。 あなたが10代でも、20代でも、30代でも、40代でも、50代でも、… あなたの今の問題に適切な指針を与えてくれるのが聖書だと思います。 聖書に土台をしっかりすえて、生き生きした信仰を持ち、 大胆に祈り、喜びつつ歩み、神を信じ、人を愛する(ゆるす)…。

もちろんそんな人生は、自分の力でなすことはできない(少なくとも私にはできない)。 自分の力で聖書に従った人生を作ることはできない。 すべて神様の深い恵みと哀れみによるのです。 ある意味では自分の人生は自分のものではない。 神様が与えてくださったものだから。 神様からいただいた人生、今日という時間。 神様に感謝しましょう。でも、神様って誰?どんな方? → それは聖書に書いてあります。 お礼を言う相手を間違えないように、聖書をよく読みましょう。