文章を、短く書くのは難しい

結城浩

2002年10月11日

「暗号本」の全体像がだいぶ見えてきた(ような気がする)ので、 そろそろ1つの章をきっちり書き上げてみようと思う。

で、ていねいに書いていく。 ざっくり書いていた文章をひとつひとつ読み、きちんと直す。 例も、図も、人に見せられるレベルまで仕上げていく。 当然ながら、書いているうちに自分の理解していないことが出てきたり、 新たな疑問がわいてきたりする。 こういうときの疑問はとても重要である。 それは読者(特に注意深い読者)が感じる疑問に近いからだ。 すぐに解決できなくてもいいから(たいていは解決できない)、 疑問点はちゃんとメモしておく。

書いているうちに詳しくなりすぎて、節が長くなってしまうこともある。 節を他の場所に移動したほうがいいかなあ、と感じた場合でも、 節の内容はきっちりと文章にしておくほうがよい。

さて、いつものことだけれど、 ここまでのような作業をしっかりやっていくと、 章がとても長くなってしまう。 大概は、当初予定している倍の長さになってしまう。

学生のころ、作文の授業では必ず先生が「長く書くのは楽だが、短く書くのは難しい」と教えたものだ。 ふんふん、と聞きながら心の中では「でも実際には指定された長さに届くまでが大変なんだよな」と思っていた。 しかし、いまは違う。実感として「長く書くのは楽だが、短く書くのは難しい」と言える。 長く書くのは楽だ。意味が通る文章で、という条件をつけたとしても、いくらでも長く書ける (いくらでも、というのはいいすぎかもしれないな)。 でも、短く書くのは難しい。短く削っていくのは難しい。短くまとめるのは難しい。

なぜか。

その文章全体で表したいことの「本質」をしぼりこむことが難しいからだ。

実家の母親は短歌をやっている。 「短歌はみそひともじ。31文字しかないから無駄なことはいえない」 ということを以前教えてもらった。 短歌と説明文では方法論は違うけれど、 短くするのは難しい、という点では同じだ。

いま、ふと、気がついた。 私たちの毎日の生活も、もしかしたら同じだろうか。 朝起きて、夜眠るまで、私たちに与えられている時間は1日24時間。 24時間しかないから、無駄なことはできないのかもしれない。

私の人生全体で表したいことの「本質」って何だろう。