何を基準に生きるのか

結城浩

昨晩は家内と電話でしばらく話す。おもに家内が話して私は聞き役であった。 私はふんふん、と聞いたり、それはこうなんじゃない、とコメントしたり。 私は大したことはいっていないのだが、 家内は電話の最後に「聞いてくれてありがとう」とお礼を言う。 そんなふうに感謝の言葉を言える女性って素敵だなあと思ったり、 夫は妻の話を聞くのは大事な仕事なのだな、と再認識したり。

朝、洗濯機を回したら洗濯機そのものの細かい汚れが浮いてきたので、 家内に電話で相談する。洗濯機の上に乗っている洗濯機の洗剤を入れて、 時間をおき、高水位でまわす、というのを何回もやるのだとのこと。 やれやれ。

おくればせながら"Programming Perl"の3rd Editionを入手。 翻訳の仕事をしている編集の方より贈呈していただく。感謝。 厚くてなかなか持ち歩きは難しい。 レビューアに昨日原稿を送ったが、早くも今日、何人かからお返事をいただく。感謝。

今日はプログラミングのお仕事いろいろ。 どうしても、どうしてもうまく動かない状況が起きて、 すごくめげる。 「ああ、やっぱり私にはこういう仕事は向かない」 などといきなり駄目駄目モードに入る。 でもその後ちょっとしたきっかけでうまく動き出す。 「やっぱり大したもんだよな。うんうん」 などと傲慢モードに入る。…いかん。

集中して仕事に向かうと、視野が非常に狭くなる。 仕事に没頭しすぎると、 仕事の出来不出来が自分の人格の出来不出来のような錯覚にとらわれてしまう。 その小さな仕事のちょっとしたことに、 自分の人格全体がぐるぐる振り回されてしまう。 もちろん、集中して誠実に仕事にあたるのは結構なことだけれど、 きちんと頭を切り換えて、 正しいパースペクティブで物事を見るようにすることも必要ではないか。

それは仕事だけの話ではない。 「この世」というものを考えよう。 この世の、特に現代の価値観にどっぷりつかっていると、 それ以外の視点を忘れてしまいがちだ。 基準となる聖書、基礎となるキリストから離れて、 この世のはかない流れに自分の人格全体がぐるぐる振り回されてしまう。 この世は移り変わっていくものだから、 それに自分を合わせようとしていったら、 川の上に浮かぶ木の葉のように揺れ動くのは当然のことだ。

生きるというのは、毎日毎日、大なり小なり「判断」を行なうことだ。 「判断」を行ない「選択」を行なう。 あることを「する」という判断もあれば「しない」という判断もある。 誰しも何かを基準にしてその判断を行なっている。 そうやって生きているのだ。 何を基準に生きるのか、何を基礎として生きるのかはとても大事だ。 毎日のことだから。特に若い人ほど大事だ。それは積み重なっていくものだから。

羅針盤を使えば、船が目的の方向からずれていないかを知ることができる。 船のへさきは、船のずれを検知するのに役に立たない。 船のへさきは、船の向いている方を向いているだけだから。 人生の歩みもまったく同じだ。 自分がずれている、間違った方向に進もうとしている、のを知るためには、 自分を基準にしてはいけない。 「船のへさきの方向へ進め」と命じる愚かな船長になってはならない。

今年も3分の2がすぎました。 21世紀まであと4ヶ月です。 救い主イエスさまの誕生を基準として時を数え、 約2000年になろうとしています。

あなたは、何を基準にして生きていますか。
あなたは、何を基礎として生きたいと思いますか。

(2000年8月31日の日記から)

豊かな人生のための四つの法則