人の記憶は薄れるが、悔い改めない罪は残る

結城浩

私がいまさら書くのは変だが、やはり神さまはいらっしゃるのだと思う出来事があった。 帰り際に仕事関連でトラブルがあり、大きな感情的しこりが残りそうだな、 という感じのメールのやりとりがなされた。暗い気持ちで道を歩いていると、 向こうから当の関係者が歩いてくるのにばったりと出会う。 道端で一言二言話をして、仕事の問題点は問題点として、 感情的な部分はさらりと解消してしまった。感謝なことである。

しかし、その反面、自分の醜さというか、罪の深さというものも思い知った。 というのは、その一言二言の会話の中で、私は「悪いのは自分ではなく、あの人である」 というようなニュアンスの発言をしたからだ。 その場にいない関係者に少しでも悪い部分をなすりつけようとする自分の姿を、 会話の相手と別れた直後に神さまに示され、愕然とする。

もちろん私は主の前にそのことを持ち出し、告白し、赦しを乞う。 そして神さまは、イエスさまの血のゆえに私のこの罪を完全に赦してくださる。 だが、私は思うのだ。決して思いあがってはいけないということを。 主の助けなしに「よい人間」でいられるような錯覚に陥ってはいけないということを。 あの一言二言の会話の中で、いわば「とっさに」出てきた私の正体は何と醜かったことだろう。

悔い改めた過去の罪を引き出してきて自分を引き下げることはしない。 それは主の十字架の完全さを疑うことだと私は思うからだ。 しかし、適切な形での反省と、 自分を可能な限り罪から遠ざけておく心がけは必要なのだろう、と思う。 聖霊様、その聖い火で、この小さき者をきよめてください。

仕事のトラブルといっても、いつかは(どんな形かわからないが)解決するだろう。 そして人の記憶も薄れていく。 何年も何十年もたったら、現在の仕事のいざこざなどは、誰も思い出さないかもしれない。 しかし、私はほかならぬ私とともに一生を歩んでいく。 どんな細かい罪も、どんな大きな罪も、そのつど、そのつど、丹念に悔い改めていこう。 たとえ他の人には ばかばかしいようなことであっても、 この世の基準からは許容できることであっても、 聖書の基準を基準として、こまめに告白をしていこう。 主を信じ、罪に敏感になるのはよいことだ。主の赦しを完全に信じつついこう。

主よ、この者の罪をゆるしてください。イエス様のお名前を通して祈ります。

(2000年4月28日の日記から)

豊かな人生のための四つの法則