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時間というものについて考える。 この世で生きていくうえで時間が大切であることはよくわかる。 というか、私たちは時間の経過とともに活動しているわけだから、 時間は必須である。
一方で、時間とともに私たちは変化していく。 成長し、老いていく。 できないことができるようになり、できていたことができなくなっていく。 出会いがあり、別れがある。
私たちは時間という流れの中に生きていて、 「いっぺんにすべて」を手に入れることができない。 何かを手に入れ、何かを失う。 何かを失い、何かを手に入れる。
私は、ときどき「それはなぜだろう」と思う。 どうして、得たままではなく、失っていくのだろう。 失っていかなければならないのだろう。 手にした状態のままではいられず、手放さなければならないのだろう。 私は、ときどき、そんなことを考える。
シンプルな答えは、きっと「執着するのがよくないことだから」だろう。 手に入れたものに執着する。自分の現在の状態に固執する。 それがよくないことだからこそ、手放さざるを得なくなっているのではないだろうか。
でも、もう一歩進んで「手放すことは、それ自体が喜びでもあるから」なのかもしれない、と、思う。 自分が手に入れたものを放す。 手放す。 得たものを失う。 もちろん、時と場合によるだろうけれど、 喪失も、喜びにつながるのではないか、などと思う。
音楽のことを思う。 美しい音楽。コンサート。 ささやかなフルートに始まり、目もくらむような音の大伽藍が組み立てられていく。 激しい響き、複雑な構造、予想もつかない展開。 ああ、このすばらしい音楽をいつまでも聴き続けていたい、と願う。 しかし、やがて終わりがやってくる。最後の音が消える。 それで完結。
演奏が終わることで、確かに私たちは何かを失った。 先ほどまで目の前にあった音楽は一瞬のうちに掻き消え、もうどこにもない。 けれど、けれども、その代わりに、最後の音までたどり着き、完結した喜びを得る。 静かで、深い満足。
何かを喪失しても、それが「あるべき姿」ならば、 そこには、ある種の喜びを生みはしないだろうか。
たとえ、いくぶんかの悲しみを伴うとしても。
(2005年4月25日の日記から)