お母さんの匂い

結城浩

体調が悪いので、昼過ぎまでぐっすり眠る。 その後、ぬるめのお風呂にゆっくりと浸かって文庫本を読む。 髪を洗ってドライヤーをかけると、気分がだいぶすっきりする。 お昼ご飯を食べに町に出る。 人ごみに入るとまた少し気分が悪くなる。 ぐるぐると歩き回ったあげく、くるくると回るおすし屋さんに入って少しつまむ。 お味噌汁を飲むと元気が出てきた。 きっとナトリウムポンプが回り始めたのだろう(意味不明)。 私はほっと一息ついて、昔の僕のことを考える。

実家のお母さんは、もう退職したけれど看護婦をしていた。 小さいころ、病院に入院すると、 売店で牛乳びんに入ったオレンジジュースを買ってくれた。 お母さんが病院で日直のとき、僕と姉はよく病院で遊んだ。 病院の内線を使って電話ごっこをし、 レントゲンのフィルムをはさんでおく黄色い紙にお絵かきをしたものだった (いまでも、その紙の色合いをよく覚えている)。 病院のエレベータで遊んで怒られた。 お母さんから薬包紙の包み方を教わって、重曹を薬に見たてて練習した。 病院特有の匂いは、僕にとってはお母さんの匂いである。

お母さんは注射がうまかった。 僕は小さいころ定期的に血液を採って血沈の測定をしていた(そういえば、なぜだろう)。 白衣のお母さんが僕の腕を押さえる。 親指を中に入れて軽く握るようにと言う。 僕は言われた通りにする。 お母さんの手がくるくると動いてゴムバンドで上腕を止める。 ちくっとするからね、とお母さんが言うけれど、 いつも、ほとんど痛みは感じられない。 だから僕は注射器の針の先をじっと見ている。 お母さんの注射は痛くない。

お母さんは、注射器がまだ腕に刺さっている間にゴムバンドをはずす。 そして、脱脂綿をあてると同時にすっと針を抜く。 ひやりとした感触と、アルコールの匂い。

お母さんの匂い。

(2000年1月15日の日記から)

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