一回性

結城浩

No Cross, No Crown. (十字架無くして、冠無し) という言葉があります。 これを単に「努力しなければ報酬はない」ととらえてはいけません。 十字架というもののもつ絶対さ、とりかえしのつかなさ、 について思いを寄せなければ意味がないのです。

とりかえしのつかなさ、というのはこなれない表現ですが、 それは命と関係しています。結婚とも、処女性とも、そして時間とも関係しています。 思いつくまま書いていきましょう。

友のために命を捨てるほど大いなる愛はなし。 命、というのは誰でも1つはもっていますが、1つしかもっていないものです。 それが――この世での命が――失われたなら、それは永遠に失われたのです。 1個しかない命、それが失われるかどうか、というのは大事件です。 大事件。失われた命は取り戻すことができない。

元に戻ることはできないものの1つとして、結婚があります。 確かに、離婚して再婚すれば何度でも結婚はできますが、 結婚というものが持っている一回性を感じる人は多いのではないでしょうか。 処女性、というのはその1つの現れです。 女性が一人いる。 古風な表現をすれば、 男性に肌をゆるしていない女性/すでにゆるした女性には違いがある。 そこには元に戻らない一回性、 何かが失われた(あるいは何かを得たのか?)感覚があります。

ここで処女性について書いたのは倫理的な目的ではありません (つまり処女で結婚するのがよいとかわるいとかの議論のために書いたのではない、 ということ)。 そうではなく、結婚に含まれている一回性(一回しか起こらないこと、 一度起こったら元に戻せないこと)の1つの例として書いているのです。

死ぬことと結婚することはよく似ている。 結婚は自分に(ある程度)死ぬことでもあり、 花嫁衣裳が死装束に似ていることはよく言われることですが、 「一回性」という点でも、死ぬことと結婚することは似ているのです。

人生だって、毎日だって、時間というものはそもそも1回きりのものです。 昨日はすでに過ぎ去り、絶対に(神さまですら)元に戻すことはできない。 私たちが悔しい思いをするのは、時間が元に戻せないものだからです (もしかしたら楽しい思いをするのも、同じ理由からかもしれませんが)。

神さまは、私たちを愛しています。 そのあらわれとして、たった一人の息子を十字架にかけました ―― たった一人の息子 …代わりはいない…絶対的な一回性がここにも登場しています。 イエスさまは、私たちの命を買い取るために十字架にかかりました。 買い取る? 支払った代金はイエスさまの「命」です。 かけがえのない、とりかえしのつかない、たった1つの命を支払いました。

愛には、必ず犠牲がともないます。 例外は1つもありません。 犠牲のない愛はにせものです。 もちろん犠牲には程度があります。 愛するもののために、自分が自由に使える時間を犠牲にする。 愛する相手のために、自分のお金を犠牲にする。 愛する人のために、自分の心を、力を、能力を、機会を、楽しみを犠牲にする。 犠牲、という表現がなじまないというのなら「ささげもの」と呼んでも同じことです。 あなたが何かを/誰かを愛するとき、 あなたは自分の何かを「ささげもの」にします。 ささげたものはあなたの手から離れ、焼き尽くされ、あなたの手には戻ってきません。 しかし、愛は喪失で終わるのではありません。 福音書も、十字架で終わるのではありません。 イエスキリストの復活があり、聖霊の降臨があり、そして(いつの日か)イエスキリストの再臨があるのです。

結婚によって乙女は失われ、二度と処女は帰ってきません。 けれど、夫はすばらしい妻を得ます。

この世の命が尽きるとき、私たちは死を迎えます。 この世の命が失われたなら、それと同じものはもう二度と得ることはできません。 けれど、神さまは私たちを愛してくださり、 新しい衣を着せ、永遠の命を与えてくださいます。 それは新しい命です。 神さまは私たち全体をまるごと買い取ったのです。

友のために命を捨てるほど大いなる愛はない。 しかし、他の人に対して「友のために命を捨てよ」と強制することはできない。 愛は強制ではないからです。 男性は女性にプロポーズをする。 「私はあなたを愛してます。私と結婚してください」 女性には選択権が与えられている。 「はい、私もあなたを愛します。私はあなたを主人とします。結婚してください」と答えるか、 「いいえ」と答えるか、 その選択権は女性に与えられている。 男性の愛がいくら大きくても、このプロトコルは守られる。

神さまはひとり子を十字架にかけるほどに私たち一人一人を愛しておられる。 そして私たち一人一人にプロポーズなさる。 「私の目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」 私たちには選択権が与えられている。 「はい、私もあなたを愛します。私はあなたを主とします。結婚してください」と答えるか、 「いいえ」と答えるか、 その選択権は私たちに与えられている。 神さまの愛がいくら大きくても、このプロトコルは守られる。 信仰告白、というのは神さまからのプロポーズに対する返答なのだ。

結城の日記を読んでいるあなたへ。 あなたは、この日記のような文章は好きですか。 ここに何か、人生を生きていくヒントのようなものを感じますか。

もし、そうなら、ぜひ聖書をお読みください。 最近読んでいない、という方は、もう一度本棚から取り出して読んでみてください。 毎日の生活に疲れている方、いくら新しい楽しみを求めてもどこか空虚な思いがする方、 ぜひ、聖書を読んでください。 現代のエンタティンメントのように手取り足取りの楽しみはないかもしれないけれど、 聖書の中にはあなたに必要なことが書かれています。 本当に価値のある時間の使い方を知る方法。 愛について、人間関係について学ぶための知恵。 神について、イエスキリストについて知るべきこと。 そして、あなたがかけがえのない、たった一回きりのこの人生を生きていくために必要なことが、 聖書には書かれているのです。

聖書の言葉は古くなることがありません。 新聞や週刊誌、雑誌、Webページに書かれている普通の情報はいつか古び、消え去っていきます。 けれど、聖書の言葉は古びることがありません。 聖書の言葉はあなたを導き、あなたを育み、 悩み多き人生で、正しい道を明るく照らす光となってくれるのです。

もう一言だけ。 「犠牲」や「ささげもの」は愛の証しと書きました。 けれどもそれは、結婚や命がけの特別な事態だけに登場するものではありません。 たとえば、あなたが(感情的には)嫌いで嫌いでたまらない相手、口もききたくない相手がいるとしましょう。 その人に「おはようございます」と挨拶し、 「ありがとうございます」と感謝の言葉をかけるとき、 それもまた、尊い「犠牲」の1つではないか、と私は思います。 そのときあなたは、自分のちっぽけなプライドを殺すことができたのです。 他の人にはたわいもないことかもしれないけれど、 それって、あなたにとっては、ある意味、いのちがけ、ですよね。 いのちがけの戦いは、私たちの平凡そうな毎日の中で起こっているのです。 イエスさまが、いつもあなたと共にありますように。

(2001年7月3日の日記から)

豊かな人生のための四つの法則