「恐れ」の底には自己中心がある

結城浩

何だかとても忙しい。というか何というかめげることいろいろある。 私のところに来るメールの中で、 よく「結城さんは強い方ですね」と言われることが多いのだけれど、どうしてだろう。 私は本当に弱い人間で、困ってしまうほどなのに。 了見は狭いし、ずるいし、気は小さいし、人を恐れてばかりいるし、 しょっちゅう不安に陥ったり、焦ったりするのに。

…駄目駄目音頭はそのくらいにして、話を先に進めよう。 今日めげたことは「ああ、こんな大事なことはもっと前もって気づいてよいはずだったのに、 どうしていままでほっておいたのだろう」という類の話であった。 もう少し正確にいうと、それで直接めげたわけではなく、 「こんなことをしていたら、誰かに怒られるのではないか」という恐れでめげるのである。 びびる、というか萎縮する、というのに近いかもしれない。

そのように分析すると、 その「恐れ」の根源にあるのは「自分のことしか考えていない」というスタンスであることがわかる。 自分のことしか考えず、自分の心を守るのを再優先する、 というスタンスが、 かえって自分を苦しめているのだということがわかる。 そして、これはまさにキリスト教の「罪」の問題ではないか。 神さまを見ずに自分を見る。 自分勝手を行なう。 自分の利益を再優先に考える。 そのような態度はやはり愛の欠如ということなのだ。

それでは私はどうするべきなのだろう。 やはり御言葉と祈りが必要なのだ。 御言葉という神さまからの糧を食し、 祈りという呼吸を行なわなければならない。 神さまからの愛を受け、それによって生きなければならないのだろう。 自分を基準にして歩むのではなく、聖書の基準にしたがって歩む。 自分の心を自分で守るのではなく、神さまの守りを信じて歩む (つまり、自分の心を自分で守るところにエネルギーを使うのではなく、 実際の問題に対処することにエネルギーを使うのだ)。 そういう態度が必要なのだろうと思う。

いろんな意味で調子がいいときは、 「お、自分って結構いいやつじゃん」などと愚かにも考える。 そうして、自分の努力で何でもできると考えてしまう。 神さまはきちんとそういう私にも適切な大きさの問題(大きすぎず、小さすぎない問題)を 与えてくださる ―― ああ、これって聖書にあるよねえ。先日目にとまった聖句だ ――

あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。 神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に 会わせるようなことはなさいません。 むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、 脱出の道も備えてくださいます。 (第一コリント10:13)

…だから、 やはり感謝しよう。どんなトラブルも感謝しよう。 それを祈りつつ、きちんと受け止めよう。 自分の罪があったら悔い改め、主の御名によって祈ろう。 また、自分がゆるしていない人がいたら、主の十字架のゆえにゆるそう。 「ゆるします」と宣言しよう。 手を上げて賛美しよう。声高らかに賛美しよう。 主なる神さまをほめたたえよう。 世の中はすごい速度で変化していくけれど、 とこしえからとこしえまで変わらない全知全能の父なる神をほめたたえよう。 世々の聖徒の賛美と祈りにあわせて、今、声をあげて主をほめたたえよう。 主の御名はほむべきかな!

自分が罪深い人間であることを認めますか。はい、認めます。 イエスキリストの十字架のあがないを信じますか。はい、信じます。 神さまが愛してくださることを信じますか。はい、信じます。 イエスさまを自分の救い主として信じますか。はい、信じます。

イエスさま、私の罪をゆるしてください。 あなたの十字架の血によって、私の罪は完全にゆるされることを感謝します。 主よ、私は弱い人間です。 どうぞ、あなたが来てくださって力を与え、 罪に陥らないようにこの小さき者を支えてください。 愛なきこの身をおゆるしください。 どうぞ、あなたが来てくださって愛を与え、 私をあなたの愛で満たしてください。 「今宵、汝の罪赦されたり(こよい、なんじのつみゆるされたり)」とおっしゃってくださる神さまに感謝します。 イエスさまのお名前を通して信じて祈ります。

アーメン! ハレルヤ!

(2000年8月10日の日記から)

豊かな人生のための四つの法則