完全な愛は恐れを締め出す

結城浩

2000年2月4日

朝食を食べ、コーヒーを飲みながら書籍の原稿を書く。 とてもよい。

このあいだも書いたが、 本を書くというのはマラソンに似ている。 いま急いだからといって全体から見れば微々たる割合しか進まない。 でもある程度のスピードをキープしないといやになってしまう。 性格的には自分にわりと合っている。 そういえば結城は中学校のとき長距離走が好きだった。

「翻訳練習」の文章を書きながら、信仰って大事だなあと思った。 神様に祈りつつ仕事することの大切さ。 神様なしで「自分を信じて」仕事をするとどうなるかというと、 ある視点が欠けるのだ。 その視点とは「その仕事をやる意義」とか「何のためにやるのか」ということを把握する視点だ。

祈ればすぐに神様から、自分がいかに小さく愚かなものであるかを示され、 それと同時に、でも神様が必要な道を備えてくださることを示される。 そして直接的に上からの力が与えられ、自分の我力でやるのではないと気づかされる。 それとともに(これが大事なのだが) 「仕事を通して『自分を誇示する』必要はない」 ということを思い出させられる。

私は一つの人格として神様からまるごと愛され、受け入れられている。 よい仕事をすればもちろん神様は喜ばれるだろうが、 いくらよい仕事をしたからといって神様からの愛が増すわけではないのだ。 すでにいまのままで神様の愛は私に十分与えられているのだから(私の杯は、あふれています詩篇23:5より)。 だから、仕事を通して神様の(あるいは他の人の)愛を勝ち取ろうとする見当違いの努力をしなくてすむ。 それは、意外に仕事の質に関わってくるのだ。 文章一つを書くにしても「自分の知識を誇る」「他の人からすごいなあといってもらう」ことを目的とするのと、 「自分が学んだことを人と分かち合う」「現在の自分で少しでも人の役に立つ」ことを目的とするのとでは ずいぶん違うのだ。

もう一度繰り返す。 いくらよい仕事をしたからといって神様からの愛が増すわけではないのだ。 それと同時に、 仕事で大失敗をしたとしても神様からの愛が少しでもかげりを見せるわけではない、 と私は思っている。 だから、失敗を恐れる必要はない。

ああ、そうか。だから、 完全な愛は恐れを締め出す のだ(涙)。 完全に愛されるとき、恐れは打ち砕かれるのだ。 完全な愛は、本当の神様しか与えられない。 人間同士の愛はそれに近づこうと試みるけれど本当に不完全な影にすぎない。 だから、信仰は大事なのだ。 神様を信じ、神様に心を開き、神様から愛を受け取ろう。 そして恐れを打ち砕き、今日の自分のなすべきことを誠実になしていこう。 「どうせ自分なんか」という自己卑下に身をまかせるのではなく、 「おまえにはできない」というサタンのささやきに耳を向けず、 心を主に向け、今日も歩んでいきましょうね。