作品と人格

結城浩

闇黒日記の平成十五年七月三日を読んでいたら、 自由に書き換えられる「ウェブ文書」の話題が展開されていた。 その中で、次のような文章があった。

例へば、大昔にはいろいろな人が寄つてたかつてテキストを磨き上げて「オデュッセーア」のやうな立派な詩を作り上げた事があるけれども、共同作業によつて立派な藝術が生れるには、作業に參加する人間の人間性が決定的な要素となる。古代に於ては、詩を愛好する人間のネットワークがあつたにしても、極めて限定的で、當然、參加者も極めて限定された、自然、極めてハイレヴェルな集合となつてゐた筈だ。しかし、現代のインターネットに於ては、共同作業は屡々、ノイズを集める事にしかならない事が多い。ネットワーク外でのコーディング作業が發生するオープンソースのプログラム開發は別として、テキストベースの共同作業は、制約のないネットワーク環境ではものにならない可能性が高い。

実は、私はこの意見にかなり賛同する。 人をただ集めて、野放図に共同作業をしても、 あまりよいものにはならないと思う。 闇黒日記ではテキストに限っていたが、 「作品」全般にそうだと思っている。

私は本を書くときに、公募したレビューアさんからの意見や提案、文章の改善案などをもらうようにしている (これは実験的にやっている面もある)。 その場合に、結城がレビューアさんに最初に伝えるのは、次のようなメッセージである。

さて、レビューの進め方について誤解があるといけないので、 補足説明しておきましょう。 このレビューは、 メーリングリストやグループディスカッションでは「ありません」。 みなさんとの話し合いで本の内容が決まったり、 多数決で何かを決めるわけでもありません。 みなさんからのご意見は大いに参考にしつつも、 結城浩が、著者として、 本の内容に関する全ての決定を行い、全ての責任を負います。

つまり、1つの作品は基本的に「1人の人格を通って作られるもの」だと私は思っているのである。 念のために書くが、これはバザール方式を否定しているわけではない。 手を動かし、目を効かせる人はたくさんいてもいい。 しかし、全体を取りまとめる人格は必要だ。

闇黒日記では、 「オデュッセーア」の例をあげていた。 少々話がずれるが、ここで聖書のことを考えてみよう。 聖書は66巻からなり、たくさんの著者が長い時代に渡って書いたものだ。 しかも、王から漁師まで著者は多彩だ。 しかし、聖書全体としては、驚くほどの一貫性がある。 私は、このことから「聖書全体を統べている1つの人格」の存在を感じている。

もちろん、その1つの人格というのは、神さまのことだ。

(2003年7月3日の日記から)

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