将来の住まいについて考える

結城浩

2000年5月14日

将来の住まいについて考えている。 将来の住まいについて考えるということは、自分の(そして家族の)生き方を考えることなのだなあ、 などと当たり前のようなことを思ったりする。 住まいについては、私よりも家内の方が熱心に考えている。 私の動きがなかなか鈍いため、家内を時にはいらだたせたりすることも多い。 でも、家内は忍耐強く、繰り返し繰り返し私に話しかけ、訴えかけるため、 少しずつ住まいに対する私の意識もずいぶん以前とは変わったように思う。 思うに、結婚のときも、私は家内からずいぶん「教育」された面があるなあ、と思う。 男性は女性によって「挑戦」を受け、それに応えようとすることで男性は成長する、 などと一般化して書くのは意味がない。 でも、少なくとも私は、家内によってずいぶん学ばされているように思う。

ともあれ住まいである。 仕事のことや、経済のこと、親のこと、子どものこと、住環境のことをあれこれと考える。 祈りつつ考えてはいるものの、頭は堂々めぐりになったり、 急に悲観的になったり、急に楽観的になったりする。 受験でも、結婚でも、子育てでも、住まいのことでも、 他の人は何だかシンプルに、すいすいとこなしているように感じることがある。 自分の経験からそれはだいぶうそだ(みんなそれぞれその場で悩んでいる)と わかってきたけれど、やっぱり自分のことを判断したり、決断したりすることは、 いくつになっても、いつであっても難しい。 何しろ、本の練習問題のように「巻末を見れば正解が書いてある」なんてことはないからですね。 人生って。

でも、いつでも、静まって、主に信頼し、主に祈るということは忘れないようにしなければ。 そして考えあぐんでいるときには、発想の逆転というのが大事になる。 すなわち、考えあぐんでいる時間というものは決して「無駄な時間」ではない、 ということだ。 どんな活動の中にも主に信頼を置いている限り、それは無駄な時間にはならない。 人間の目には無駄なこと、困難なことのように見えていても、 神さまはそれを万事益に変えてくださるのだ。 そもそも十字架がその大逆転の最たるものではないか。 救い主が捕らえられ、十字架にはりつけの死を遂げる、 これは失意のきわみではないか。 しかし三日の後に主は復活なさった。死に勝利して。 これによって、私たちの罪のあがないが完成し、 復活と永遠の命の約束が与えられているのではないか。 だから、恐れずに、いつも主を見上げて、毎日の生活を送ろう。 そのときにこそ、本当の意味で「生きた」人生が開かれるのだから。 命がほとばしるような、生き生きした毎日が展開するのだから。

あなたの今日の悩みは何ですか。 あなたの今日の苦しみは何ですか。 困っていることは何ですか。 今、そのことを主の前に持ち出しましょう。 全知全能なる神さまの前に持ち出しましょう。 私たちの罪のあがないを成し遂げてくださったイエスさまの前に持ち出しましょう。 あなたは何を恐れていますか。何から逃げようとしていますか。 万軍の主を信じましょう。 主の御心は必ず成就します。聖書の言葉は真実です。 疑わず、主を信じましょう。 隠している罪はありませんか。告白していない罪はありませんか。 イエスさまの御名によって、神さまの前に正直に告白しましょう。 そしてイエスさまの血潮によって完全にきよめていただきましょう。

ハレルヤ! ハレルヤ!

主によって恐れを打ち砕いていただき、 イエスさまを心から信頼し、 罪のゆるしを受け、きよめを受け、 今日も歩んでいきましょう。

ハレルヤ! ハレルヤ!