結婚前の清い交際を保つことに困難を覚えている若いクリスチャン女性へ

結城浩

2003年7月1日

お手紙ありがとうございます。 ゆっくり読ませていただきました。

クリスチャンの彼がいて、あなた自身もイエスさまを受け入れている。 しかし、二人が会う時、肉的な欲求を振り払えない自分たちがいる。 それを通して自分自身の弱さ、自分自身のあり方、ご都合主義的な自分を思わされる。 そして責められているような思いから、しだいに教会へ足を運ばなくなってしまった…。 ということでしょうか。

この世にあって、若い男女が清い交際を持つということは至難のわざです。 何しろ、ほぼすべてのメディアがキリスト教の性のモラルに まっこうから反対しているのですから。

まとまった話にはなりそうもありませんので、 思い付くまま書かせていただきます。

私は結婚前、信仰の先輩から 「キリスト者の男女は向かい合うのではなく、並んで神に向かうのだ」 という言葉を聞きました。 男女が向かいあって世界を閉ざすのではなく、 男女が一緒に同じ方向——神の方向——を向くのだ、 という意味です。

誘惑との戦いは毎回やってきます。 一度誘惑に屈すると、その次にはほんの少し屈しやすくなってしまいます。 しかし、戦いは毎回新たにあるのです。 毎回の勝負の結果がどうなるかは、戦いが終るまでわかりません。 前回負けてしまったから今回も負けるだろう、と戦いの前に考えてはいけません。 戦いは、毎回、新たにあるのです。

自分が罪深い存在である、というのを認めること、 本当に弱い、本当に本当に、情けなくなるくらい弱い存在である、 というのを認めることはつらいことです。 でも、それは認めなくてはなりません。 そこが出発点だから、そこしか出発点はないからです。

クリスチャンとしての一貫性のなさ、気になりますよね。 御都合主義的な自分に腹が立ったり、相手に当たったりすることもありますね。 神の寛容と愛を思うと、恥ずかしくてたまらなくなります。 私もそうです。自分の弱さ、誘惑に対する耐性のなさ、 神さまと奥さんしか知らない私の弱さと醜さもたくさんあります。 でも、そこにこそ神さまが来てくださると思います。 その私の弱さのためにこそ、イエスさまが死んでくださったのだと思います。

私は何度も何度も罪を犯します。 そして何度も何度も悔い改めます。 あるときは誘惑への抵抗が成功をおさめます。 あるときは誘惑が私をこれ以上ないと思うほど私を屈服させることすらあります。 けれど、私は何度でも悔い改めます。 そして神さまに赦しを乞います。 悪魔の目的は誘惑に屈服させること、というよりも、 それを足がかりにして神さまから私たちを引き離すところにあると思うからです。 悪魔の策略にのってはいけない。

あなたの弱さ、また彼の弱さ、というものは、 いまは誘惑のつけこむ隙になっているのかもしれませんが、 その部分にこそ、神さまに立っていただくべき場所です。 そしてあなたの弱さ(と見える部分は)正しく神に用いられるとき かけがえのない部分になるのではないか、 と私は思っています。

苦しいけれども戦ってください。 彼という存在がいることはわたしはよいことだと感じます。 共犯者となり続けるのではなく、どうか互いに励ましあってください。 あきらめたり、開き直ったりせず、でも深刻にもならず、 明るく、さくっと、誘惑と戦ってください。 御言葉や祈りは大きな助けとなりますが、 ユーモアも実際的な助けの一つです。 あなた方は戦場を共有している戦友です。 勝利の報酬は大きい。

今ではもう祈れなくなったそうですけれど、 また祈ってみませんか。 整わなくっていいんです。 あなたの気持ちのぐちゃぐちゃのままそのまま、 愚痴、文句、言い訳、恨みつらみ、泣き言、 いいたいこと、ぜーんぶ神さまに伝えてください。 大丈夫、祈れますから。恐れずに、祈ってください。

あなたがた二人に対して直接メッセージを送る人は少ないかもしれませんが、 少なからぬ数のクリスチャンが、あなたがたと同じチャレンジを受け、 祈りつつ歩んでいます。

それに誰より、イエスさまが、あなたがたと共におられます!