教えるということ

いまを生きる

結城浩

ねえ。

気がつくと、もう夜になっていました。
部屋はすっかり暗くなっていて、
あわてて部屋の電気をつけました。

コンピュータのディスプレイに映るプログラムを読み、
キーボードの上で指が文字を打ち出すのを眺めていました。

もうだいぶ疲れたので「お仕事」のプログラムを書くのはやめにして、
「遊び」のプログラムを書き始めようかと考え、
ちょっと苦笑しています。

結城です。
暑いですが、もうすぐ夏も終わりですね。
いかがお過ごしですか。

最近はまじめにお仕事をしています。
新しいノートパソコンを買い、楽しい毎日を過ごしています。
画面が広いと心も広くなれるかな。
そんなに簡単にはいかないですね。
でも、文章の書き方に影響は少し出るみたいです。

メールマガジン『Perlクイズ』は読者から大きな反響があります。
読者からの熱烈な応援メールを読みながら、
やはり、私は「教師」なのだと思います。
私の父は教師で、私にもその血が流れているのです。

家内に言わせれば長男も「教えたがり」だそうで、
息子にもその血は少し受け継がれているようです。
不思議なものですね。

文章を書く人間や個人ホームページを開く人間は
程度の差はあれ自己顕示欲が強いことは否定できません。
本を書くことだってそうです。自己顕示欲がある。
でもそれだけでは文章は書けない。書きつづけられない。
自分の中からだけでは、よきものは出てこないからです。

自家中毒を起こさずに、水ぎわで水仙の花にならずに、
文章を書きつづけるためには、他者が必要だと思っています。
自分を客観視する視点、
自分以外の何か・誰か、
自分に何かをフィードしてくれるもの、
それがないと、本当に単なる自己満足(まあそれでもいいのですが)。

何度もあちこちで書いていますが、
"Remember that the object of exposition is education, not showmanship."
(by Jeff Ullman)
「説明(解説・執筆)の目的は教育であって、
 ショーマンシップではないことを忘れるな」
という言葉を何度も思い出します。

私は文章を書く。
うまいへたは別として、文章を書きつづけていくと思う。
そして私の書く文章は「教師」の文章なのだと思う。
教えたがり、説明したがり、面白さやワクワク感を伝えたがる、そんな文章。

教えるときのことすら教えたがる。
http://www.hyuki.com/writing/teach.html

考えてみれば、プログラムを書くというのは、
コンピュータに対して「これこれこういうことをしなさいよ」
と教えていることに他ならない。ふむ。ふむふむ。

教師のお手本は「イエスキリスト」です。
イエスさまは救い主であると同時に教師でもあります(ヨハネ3:2など)。
たとえ話のたくみさや、
聞いている人の心のつかみ方という部分だけを見てまねるだけではなく、
(それだけでも大きなことではあるが)
その生涯をよく見、イエスさまが何を大切にし、
何を大事なこととして語られたかに目を留め、
聖霊さまの助けを借りて聖書を読まなくては、と思う。

何かを教えるとき、ショーマンシップに立っていたら、
(すなわち「私はこんなことも知っているんだぞ」という立場になっていたら)
それはよき教師ではない。
大切なことを見分け、そして生徒の本当に役に立つことを見分け、
相手の必要を満たすように配慮しつつ語らなくてはならない。
そうか、やはりここでも聖書の「愛」が基本なのだね。

えらそうなことを書いてごめんなさい。
上で書いたことが自分にできるかどうかは棚にあげていますが(^_^)、
でも、私ができるかどうかはあまり問題ではないんです。
イエスさまに対する信仰をしっかりともって、
聖書に忠実に歩もうとする意志をもつことが大切なんですし。

人生を歩むことを高い山にのぼることにたとえたのはC.S.ルイスだっただろうか。
高い山に登る。
自分の足でさっさと登れる人もいるし、
なかなか登れない人もいる。
でも、自分の足で頂上までいけるかどうかは問題ではない。
だって、本当に求められているのは、山の頂上にたどり着くことではなく、
なんと、そこから天に上ることなのだから。
人間の足で登れるのは、たとえ登れたとしても頂上までだ。
だから、山に登っている途中、誰が上にいるか、誰がまだ下にいるかは問題ではない。

天に上るためには天与の翼が必要だ。
信仰という名の翼。
それは人間の努力で得るものではない。

イエスキリストの恵み、父なる神の愛、
そして聖霊の親しき交わりが、
あなたの上に豊かにありますように。

明日は聖日です。
おやすみなさい。

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