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みなさまが送ってくださった感想から抜粋させていただきました。 プライバシーに関わる部分などは適宜編集いたしました。 基本的には名前は出さないようにしています。 もし何か問題がある場合にはご連絡ください。 みなさんからのあたたかい励ましを心から感謝します。
◆ とても素晴らしいサイトですね。 (親切でレイアウトも大変読みやすく、とても安心できる ところという印象を受けました。)
今日初めて見つけました。(多分GOSPELjapanからのLinkで) 勿論まだ全部は拝読していませんが、 信じていて以前から持っていた疑問、 また、一つの教会しか知らないのでそこで生じた疑問が何となく解けました。 特に ロバ耳は最高です。
このサイトが守られますよう、結城さんの上に主の祝福、そして 現実面での助けが豊かにありますようお祈り申し上げます。 (させて下さいという思いです)
◆ 私は自分の心がとても揺れてしまったとき、 「いまを生きる」を読みに来させて頂いています。 私はクリスチャンではないのですが、 結城さんの文章と文中の聖書の引用(でよろしいでしょうか?)が心に染み渡るような気分になります。 私はわけあって大学を中退し、 プログラマのかけだしのまた半歩前のような人間ですが、 先日の「日記」を読ませていただいて、 勇気をいただきました。
私もいつか、たくさんの人の(もしかしたら結城さんの)お役に立てる人間に成長していきたいと思っています。
貴重なお時間を割き、お読みいただいてありがとうございました。
(23歳)
◆ 今日、 「話を聞く」というタイトルにひかれて読みました。ただ相手の話をきけるような人にわたしもなりたいです。 ついアドバイスしたくなります。こうしたら?ああしたら?と言いたくなります。 そして言った後で「ああ、ただ聞けばよかったのに」といつも思います。 「易者」のようにただ聞く、とは今のわたしが本当に求めているところです。 祈って求めていつかあたら得られることを思い出させていただいた、 結城さんの 「話を聞く」でした。ありがとうございました。
◆ 疲れて床に入ったのに、頭がさえて眠れないとき結城さんのHPをのぞきに来ます。 上手く表現できませんが、結城さんの文章からは本当の謙遜さ、 敬虔に神に聴こうとするひたむきさが伝わってきます。 組織の中で人間操縦に明け暮れている私には、到底到達できないような心境にあって、 なお、ストレスの溜まりやすい仕事をしていらっしゃることは、 恩寵以外のなにものでもないと思っています。 中途半端なまま廻りに流されつつある私に欠けているのは、聖霊による照らしを求める祈りでしょうか・・・・。
◆ 幸せな結婚生活を送る秘密を読みました。
お互いを愛するってこと=共に生活をする と受け取りました
私はまだ結婚していません。だから、幸せな家族生活とは?と考えてみました。 幸せだなあと思うのはやはり、安定があるところだと思う。 変な意味での安定ではなく、核となるものがあるからだと思う。 確かに変化している けれど、ゆっくりなので、その変化が気にならないし、 見失うことはない。 だから、安定、核がある。安心するのだとおもう。 それが幸せなのかな。
また、その核は家族それぞれが少しづつ持ち寄ってできている 気がします。 だから、誰かが気が滅入っても、他の誰が支えたり、回復するまで 待っててもらえるのだと思います。 (この文章の「核」を「愛する」「思う」と変えてもいいかも。)
そんな風に思いました。 それから、 ちょっと聞きたいことが 妻は従い。夫は愛する。 従うと愛する、両方やることが違う。
夫は従い。妻は愛する。でもいいの? なんで、お互い愛する。とかかれてないのでしょうか?
ちょっと疑問に思いました。
では、また。
結城:
これは新約聖書のエペソ書の5章をベースにして書かれているからです。 聖書では、夫婦のうち、夫がかしらになると表現されています。 夫婦は神の前に平等ですが、役割においては違いがあります。 そのことを表現したいと思ってあのように書きました。 もちろん、夫に従うというのも愛のかたちの一つです。
「互いに愛し合いなさい」というのも神さまのメッセージですが、 ここの部分ではもっと踏み込んで、夫婦のそれぞれのあり方について 書いています。
夫婦は二人なので、もしも二人の意見が一致をみなかった場合に 多数決で決定するわけにはいきません。ですから、
(1) 二人が別のやり方で進む (2) どちらかがリーダーとなる
の二つのいずれかを選ぶ必要があります。 (1)の方法は、夫婦は1つの体なのですから、引き裂かれた夫婦を意味します。 聖書は(2)の方法を示しています。 そして男性側がリーダーである、と主張している、と私は理解しています。 (もちろん、 このような考え方を選ぶかどうかは各夫婦にゆだねられているわけですが)
そして、繰り返しになりますが、 夫がリーダーとなり、最終的な意志決定の権限を持つ(と私は理解しています) というのは、神さまと私たちの関係の比喩でもあるのです。
神さまは私たちの欠点をあげつらうのではなく、 どんな欠点があろうとも高価で尊い存在として私たちを愛していてくれる。 それだけではなく、しみもしわもないものとしてくれる。 夫も同じで、妻の欠点をあげつらうのではなく、 どんな欠点があろうとも高価で尊い存在として妻を愛する。 妻を「自分のからだのように愛さなければなりません」(エペソ5:28より)。 イエスが十字架にかかって私たちを救ったように、 夫は命がけで妻を愛さなければならない。
逆に妻は、夫に従うべきです。 教会がキリストに従うように、そのように夫に従いなさい。 それが聖書のメッセージです。 これは家族関係における聖書の勧めです。
夫は妻を愛しなさい。妻は夫に従いなさい。
聖書はそのように勧めます。それが結局は家族関係をよきものにし、 私たちが幸せに過ごすための秘訣なのではないか、と思います。 こういう基準がないと、私たちは自分の「ずれ」に気づかない。
夫が妻を愛し、妻が夫に従う。
これを常に守れる夫婦はまれでしょう。 でも、それが本来の夫婦があるべき姿なのです。 じゃあ、年がら年中そのあるべき姿に向かって努力しなくちゃならんのかい、 それは大変なことだねえ、やだやだ…と思いがちです。 でも、違う。自分の努力だけではできません。
夫は妻を愛しなさい。妻は夫に従いなさい。
これが神さまの命令だとすれば、 「どうか妻を愛せますように」 「どうか夫に従えますように」 という祈りは、神さまの御心にかなう祈りです。 ですから、そのように信じて祈れば、祈りつづければ、 必ずそうなります。 神さまみずからが正しい夫婦関係に方向修正してくださいます。 そのように私は信じています。
話がそれてしまいました。 ともあれ、以上のようなことを私は考えております。 何かのたしになれば感謝です。
◆ 結城さん、こんばんは。
「今、どうこたえるか」の部分です。最初、「信仰告白」の意味がわからず、最後まで読んでもよくわかりませんでした。 そこで、辞書を引きました。 自己の信仰を明白にする。これが、信仰告白と載っていた。 私はそこから、信仰→自分が信じるもの→自分の核→自分の意志 を連想しました。 自分の意志を声に出す(表してみる)ことで ほんとに道が決まる気がしました。 結城さんが書いていた、 1ビットの返答で意味が決まる。変わる。ということが 納得できます。
私はそのはい、いいえ、さえも躊躇します。 一つに決められない。もう片方を捨てられない。 欲張りなのか、いつか使うかもという貧乏性なのか
返事をすることで、次に進むところが見えなくて不安だから?
責任がとれない、とりたくない子どもなの私は?
ごめんなさい。話が飛びました。 手紙を読んで 意志を表現することで道が見えるということ と私は思いました。
ところで、何で結城さんはこのことを 書こうと思ったの?
ではまた。
◆ 結城さん、こんばんは。 よく、結城さんのページに来させてもらってます。
17番目の 恋がおわり、愛がはじまるをよみました。
言葉の大切さを感じました。言葉がなくては、通じない 文章を書くことでその人がわかる。というところは 何にもない自分をみられるようで、自分のことを考えると 不安になりました。ああ、私にはツールが上手く使いこなせてないって。 ちょうど、コミュニケーション、言葉について悩んでいたので 少し、涙ぐんでしまいました。
こうやって、結城さんに感想を書いていても、 自分の気持ちを伝えられないことに、ちょっと残念です。
結城さんにとって文章を書くことが けっこう好きなたべものように 感じました。 私にとって文章をかくことは 私の苦手な苦手な科目の宿題のようだなあと思いました。 暗くなって、ごめんなさい。
話を変えましょう。
結城さんのページとても、魅力を感じます 引きつけられる言葉を見つけたときは 感動しますね。箱(パソコン)から いいものみーつけた! と嬉しくなります。
では、また。
結城:
言葉について悩む人、コミュニケーションについて悩む人は真摯な人です。
言葉の向こう側には「相手」という人がいます。 メールでも、Webでも、直接会うことでも、電話でも、 言葉の向こう側には人間がいます。
言葉について悩んでいる人は、 人間関係で悩んでいることが多いのですよね。
生きていると、いろんなことがあり、いろんなときがあります。 うれしいこともありますし、最悪の時もあります。 人生ジグザグです。
あなたのこれからの人生が神さまの祝福に満ちたものになり、 人間関係も整えられますように、イエスさまのお名前でお祈りします。 アーメン。
◆ 初めまして。 かなり長い間結城さんのサイトを拝見しています。
個人的事情により、「信仰」とはどのようなものか? という疑問をずっと抱いています。 そのなかで結城さんの書かれた物は、私にとって 1つの回答を見せてくださったように思います。
ずっとお聞きしたかった質問です。 「信仰を持つ者と、持たない者の結婚生活はありえますか?」
不躾な質問、お詫びします。 細かな事情も書けませんが、是非一度ご回答頂けませんでしょうか?
今後も結城さんのサイト楽しみにしております。
結城:
はい、ありえます。 実際にそういうご夫妻はいらっしゃいますから。
信仰(ここではキリストに対する信仰だとします)を持つ人と 持たない人が結婚するとしたら、私が疑問に感じるのは、
(1)信仰を持たない側は、 信仰を持つ側の一番大事な部分を理解しないまま結婚する
(2)信仰を持たない側は、 教会での結婚の誓いの意味を知らないまま結婚する
という2点です。
そういうご夫妻が「幸せかどうか」については、 私が独断的に語ることはできませんし、 推測するのも失礼なことでしょう。
多くの人が、結婚後に相手が信仰を得ることを期待します。 しかしそれはとても難しい道です。
お返事頂きましてありがとうございます。 重ねてもう1つ質問をよろしいでしょうか? 「相手の信仰を理解する」ということは「自分も相手と同じ信仰を持つ」 とイコールなのでしょうか? ここに私はいつも行き詰まりを感じています。
結城:
普通は違います、というか、それは「理解する」を どういう意味で使うかによります。
「相手の信仰に理解を示す」とか「相手の信仰を自分なりに理解する」 と、 「自分も信仰を持つ」
というのは違うことです。 言葉はもどかしいものですね。 私のメールはものすごく言葉足らずなので、 私のメールだけから何かを結論付けたりしないように くれぐれもよろしくお願いしますね(^_^)
あなたが感じるのは、どのような行き詰まりでしょうか。 信仰を持つ、というのは 知識を得る、のとは少し違い、 すべて自分の思い通りにできるものでもありません。 知識ではなく、 「私もそのような人生を歩みたい」という意志を持って一歩を踏み出す (あるいは手をあげる) のがスタート、という面もあります。 二歩目からは神さまが導いてくれます。
あなたのご質問は、 信仰の有無に関わらず抱くことのようです。 信者が未信者を好きになった場合、 未信者が信者を好きになった場合、 そのどちらでも。
あなたがいまそのような恋愛をしていらっしゃるなら、 本当の愛なる主が、あなたを(そして相手の方)を導いてくださいますようにと お祈りします。 あなたの人生に神さまからの豊かな祝福がいつもありますように。
あなたの感想をお送りください。 あなたの一言が大きなはげみとなりますので、どんなことでもどうぞ。
何かの理由でうまく送れない場合にはメール hyuki@hyuki.com でお願いします。