ティナからの手紙

tina letter

結城浩

先生、ごぶさたしております。

私たちの村をお訪ねいただいてからずいぶん時が過ぎました。 あの頃は、ちょうど祖母が亡くなって間がありませんでしたから、 少しく見苦しいところがあり、申し訳ありませんでした。 お詫びいたします。

けれど、あのとき、トリルラの丘で泣いてしまったときに お祈りいただいたことを今でも思い出します。 ありがとうございました。

深い悲しみのうちにあるとき、 日々を過ごすのがどうにも重くてしかたがないとき、 私たちの思いを越えた、いと高きあのお方に祈れるのは、 喜びであり、また慰めです。

しかしながら、静かで落ち着いた日々を送るというのは思いのほか難しいことです。 ややもしますと、心を騒がすできごとに巻き込まれ、 自分の歩むべき正しい道からそれてしまいそうになります。

私たちの村には 《フォルトラ・ドルクラ・ミドラ》 という言葉があります。 そのまま訳しますと《森を歩く足は二本では少ない》となりますでしょうか。 要するに《ひとりで森を歩くな》ということです。 森の中をひとりで歩いていると、 いつのまにかどこを歩いているかわからなくなってしまいます。 ひとりで歩くのはあやういものです。

つい先日、 《フォルトラ・ドルクラ・ミドラ》の言葉どおりに、 森で行方知れずになった若者がおりました。 いえ、幼い子ではありません。もうりっぱな青年です。 よく晴れた朝に一人で森に出かけ、そのまま戻ってきませんでした。 森の道のはずれに、彼の靴が片方落ちていました(左足でした)。

私は、ときどきこわくなります。 この村には悪いものはないのですけれど、 息が詰まりそうになります。 《外》の人がくることもずいぶん少なくなりました。 この村に居続けるのは、私にとって良いことなのでしょうか。

この村を出て《外》の世界に住むのは、 天国で祖母もきっと喜んでくれると思います。 しかし《外》へ行くことはこわい。 私の踏み出す一歩は、正しい一歩なのでしょうか。 それとも、左足の靴をひとつ残して森に消えた若者が踏み出した誤てる一歩なのでしょうか。

ええ、神さまに祈り、また牧師先生とお話しています。 牧師先生は、この村に居るよりも外に出たほうがよいと勧めてくださいます。 私も「そうだ。 使わないものはすべて捨ててしまおう。 ほんとうに大切なものだけを選んで鞄に入れ、 まっすぐ帽子をかぶり、扉を開いて出かけよう」と思います。

しかし、いつもの家に帰り、いつもの部屋で、いつもの机に座ると、 なぜか急に力が抜けてしまい、何かをはじめる気持ちがすっかり消えてしまうのです。 いまはその「いつもの机」の上で先生への手紙を書いていますけれど。

私は、英語もできますし、飲み込みもよいですから、 《外》に行っても、きっと暮らしてゆけるでしょう。 ただ、思い切った一歩を前に踏み出せばよいのです。

英語の学びを一通り終えたとき、私はどうして村にとどまろうと考えたのでしょう。 勢いがついていたあの頃に、もしも望んだならば《外》へ行くこともできたでしょうに。 《外》へ出て行き、私の新しい暮らしをそこからはじめてもよかったのです。

けれど、そのときはなぜか、村にとどまるのが当たり前と思えました。 《外》からの言葉を村の人のためにうつしかえることと、 《外》から来られる方のお世話をすることを、私がなすべきと思ったのです。 先生とはそのようにしてお会いできたことになりますね。 それは、とてもうれしく思っています。

しかし、先ほども書きましたように、この村を離れ、 《外》へ出たいという気持ちが少しずつ強くなってきました。 その一方で、村へとどまるための新しい理由が生まれてしまい、 私の心は迷いに満ちています。

その新しい理由というのは、《つどい》で出会った、私と同い年の少年です。 私は彼と親しくしているうちに、 春のような笑顔をした彼を好ましく思うようになりました。 私は彼を好ましく思っており、 また、彼に私のことを好ましいと思ってもらいたいのです。

彼は、私と同じくこの村で生まれ、この村で暮らしています。 彼はこの村にとても慣れ親しんでいます。 私たちの村は退屈ではありますが、青い空、緑の丘、肥えた地に恵まれています。友だちもおります。 わざわざ好んで《外》への思いを持つ人は少ないのです。

私は困っています。 私は、いつか彼に、私のことを話すでしょう。 この村に感じている行き詰まり、果てしなく続く日々に対するもどかしさ、 そのようなことを彼に話すでしょう。 私を彼に知ってもらいたいからです。 でも、そのとき、彼はなんと思うでしょうか。 彼は村の人です。村から離れようとしている私を、そのまま受け止めてくれるでしょうか。 私を送り出して、しかも私を好いていてくれるでしょうか。 あるいはまた、望むべくもないことかもしれませんが、 私と共に《外》に来てくれるでしょうか。

私は気持ちを彼に伝える前から、 このようなことを考えています。 答えは見つかりません。決めることもできません。 私は、扉の前で動けなくなっています。

《外》への思いを捨てて、すべてを彼に合わせてしまうのがよいのでしょうか。 それもまたできそうにありません。 私はキリストを信じる者として、もし彼がいつか私の夫になる人なら、彼に従うつもりでいます。 しかし、自分の気持ちを覆い隠すのは従うこととは違うでしょう。 はっきりと気持ちを伝えて、その上で、私のことを受け入れてもらいたい。

私の気持ちを伝えたい。 しかし、彼から拒まれることはとてもこわい。 私には耐えられないかもしれません。

わたくしごとばかり書いてしまいました。すみません。 またいつか、先生にお会いできますようにと神さまにお祈りしています。 そのときには、もう少し違う私のことをお話しできるとよいのですけれど。

先生のなされるすべてのことに、神さまの豊かな恵みがありますように。

どうぞ私のことも、お祈りのうちに覚えてください。

(2006年6月)

(前日譚)ティナ