教えるときの心がけ

結城浩

目次

はじめに

他の人に何かを教えるというとき、私たちは何を心がけたらいいのでしょうか。 職業として毎日教えるとき、 たまたまちょっとしたことを教えるときなど、 いろんな「教えるとき」がありますが、 そのときのヒントとなることを少し書いてみようと思います。 あなたの何かの助けになれば幸いです。

このページは、読者からの質問をきっかけとして書きはじめました。 メールを送ってくださった福島さんとテレサさんに心から感謝します。

(1999年6月20日)

教える前に

何もないところから、いきなり教えることはできません。 教える前にやるべきこと、というものがあります。 教える側と、教えられる側の両方に。

教える前に、学ぶ

教師は教える内容をよく知っていなければなりません。 当然のことなのですが、意外に忘れがちなことですね。 教師は教える内容を、教える前に自分で十分に学んでおく必要があります。

しかし、自分の準備が完全になるまで教えはじめない、 という態度も正しくはありません。 なぜなら準備が完全にできることはありえないからです。 どんな質問が出ても、どんなことを聞かれても、 完全にすらすらと答えられるように準備しようと努力することは素晴らしいことですが、 その準備ができなければ教えはじめない、という態度は正しくないのです。 完全な準備に固執するのは「熱心な態度」というよりも「生徒に対する恐れ」のゆえではないでしょうか。

十分に準備しましょう。可能な限り時間を使って準備しましょう。 けれども、準備はあくまで準備にすぎません。 いつか準備を打ち切って「教えはじめ」なければなりません。 勇気をもって。

「教える内容」だけではなく、「教える順序」にも気を配りましょう。 簡単なメモで構わないので、教える順序を紙に書いてみましょう。 そしてできれば、前もって教える練習をしてみましょう。 教えるとき、アドリブが必要になることもありますが、 入念な準備をおろそかにしてアドリブばかりしていてはいけません。

どんな小さなことを教える場合でも、それなりに準備をしましょう。 小さなことをおろそかにする癖がついていると、 大きなこともどこか穴があくものですから。 他の人から愚かだと思われようとも構いません。 愚直に、やるべき準備を淡々とやりましょう。

その努力が生徒の理解の助けとなるのです。

教える前に、自分を整える

教える前には自分を整えておく必要があります。

気がかりなことはありませんか。 資料のこと、会場の明るさ、空調の効き具合、時間のこと、 その他、何でも気にかかっていることはありませんか。 可能な限りそれらは前もって解決しておきましょう。 自分が教えることに集中できるように、 前もって段取りをよくしておきましょう。 必要があれば、他の人に気になることを伝えて解決してもらいましょう。

前の日に準備していたとしても、直前に全く他のことをしていてはいけません。 準備した資料に目を通したり、もう一度教える順番のメモに目を通したりして、 ウォームアップをしておく必要があります。 前の日の準備は、いわばハードディスクに入っているようなもの。 あなたの頭のメモリーにはまだ読み込まれていないのです。 ですから、せっかく入念な準備をしていても、直前の自分の整え方で、 大失敗に終わる場合だってあるのです。

あなたがクリスチャンなら、教える直前にはよく祈りましょう。 自分の我力で教えないように。

教える前に、相手を整える

生徒が聞いていなくては、何を教えることもできません。

あなたは魔法使いではないのですから、 生徒が聞いていないのに、生徒に何かを伝えることはできません。 生徒が聞いていないのに、あなたが一方的に話しても、 それは何の意味もありません。

ですから、まず、生徒の意識を自分に向けさせ、 学ぼうとしていることに向けさせる必要があります。

効果的なのは「枠からはみでること」です。 思い切ってはみ出ることで、生徒の意識は変わります。 講壇の上にいるなら、講壇から降りて生徒の前に歩んでいく。 講義口調ではなく、普段着のセリフを話す。 教える内容ではなく、今日のみんなの関心事を話す。 大きな声を出す。小さな声を出す。 グッズ(人形・模型・本・おもちゃ)などを見せる。 そんなちょっとした工夫で、生徒の意識は驚くほど変化します。

でも、おふざけをやっているわけではないのですから、 そのような「枠からのはみだし」も、 ちゃんと今から教える内容に結びついていてほしいですね。 そこは、あなたの腕の見せ所。

生徒の準備が整っていないのに、急に内容に入ってはいけません。

教えるとは、ドラマを演じること

教えているとき、あなたは演技者です。 生徒という観客の前に立ち、演技を続けなければなりません。 あなたの語る言葉や、あなたの身振り手振り、あなたのすべてが 観客の前にさらされています。 そしてあなたはそのすべてを通して教えているのです。

ここは舞台、あなたは演技者

あなたは演技者ですから、生徒という観客を引きつけなければなりません。 観客はすぐに気をそらしてしまいます。 つまらなければ退屈し、飽きてしまいます。

教師は自分の教えている内容をおもしろがらなくてはなりません。 教師がつまらないと思いながら教えていても、 生徒がおもしろいと思うわけがありません。 かといって、教師がひとりよがりしていたら、 生徒はいっそう飽き飽きするでしょう。

えっ、つまらない内容を教えなきゃいけないときもあるって? そーゆーときにも、枠を飛び越えましょう。 内容はつまらなくても、教え方をおもしろがることができるように。 そしてまた、生徒と「ここ、つまらないよね」と感覚を共有しながら楽しめるように。

あなたは演技者なのですから、大嘘をついても構いません。 もしもそれが生徒の理解を助けるならば、ね。 わかりやすく教えようとするとき、 そこにはいろんなレベルでの取捨選択やデフォルメが入ります。 事態を単純化したり、例外をわざと隠して教える必要があります。 はじめから、

「AはBでもあり、Cのときもあるけれど、Dだったりもするし、Eかもしれない」

と言われても、生徒は混乱するばかり。はじめのうちは

「AはBである」

と言い切ってしまってもよいのです。この文が生徒の心にしっかりなじんでから、 CやDやEの話をしてもいっこうに構いません。

あなたは演技者なのですから、観客の人数に気を配りましょう。 1人に教えているときと、100人に教えているときでは、 さまざまなことが変わってきます。声の大きさ、題材の選びかた、テンポ、 対話の度合い…いつも、観客の人数に気を配りましょう。

型にはまらず、ダイナミックに

教えることは、台本がないドラマのようなものです。 型にはまらず、ダイナミックに進むのも必要です。

生徒の反応をみて、場の空気を読んで、 思い切って教える内容を変えたり、脇道に踏み込んだりするときもあります。 自分で決めた教える順序にしたがってもいいのですが、 実はしたがわなくてもいいのです。 不思議なもので、一見雑談に見えるような話の方が、 生徒の集中力が増したりします。 その場の空気と場の流れをうまく読んで、 あなたが教える内容がうまく生徒の心に届くように心がけましょう。

そのやり方には一般的な公式はなくて、 教師が自分で見出さなければなりません。 しかも、同じ手法、同じ方法がこの次の機会にも使えるとは限りません。 だからこそ、教師は人間がやっているのです。 教師は授業に対していつも、あたかもこれが 「生まれてはじめて教える授業である」 かのように向かう必要があります。

授業に慣れてはいけません。いつも初心を忘れずに、 新たな発見を授業の中から見出すように心を開く必要があるのです。

教えるとは、ガイドすること

教師の仕事はガイドです。 生徒がひとりでは たどっていけない道を導いていくのが仕事です。 そう考えれば、どこからはじめればいいのかわかってきます。 けれども道を歩くのは生徒の仕事。 あなたが代わりに歩くわけにはいきません。

生徒の知っていることからはじめましょう

教師の仕事はガイドです。 まず、生徒の知っていることからはじめましょう。 生徒がいまいる場所からはじめるのです。 生徒がいまいる場所はどこでしょう。生徒が恐れずに一歩を踏み出せるのはどこでしょう。 教師はそれを意識しなければなりません。 生徒は知らないことを学びに来ているわけですが、 いきなり知らないことを話しはじめても理解できるわけはありません。 教師は生徒のいる場所を知り、そこから少しづつ、知らないところへと導いていくのです。

「いま、あなたがここに立っています」

「ほら、そこには石があるからつまづかないように」

「一見、右の道が正しいように見えるけれども、実は左の道が正しいんだ」

「ここにあるのが道しるべだ。この読み方を教えよう」

これらはすべて、生徒が道に迷わないようにするためのガイドの仕事です。

全体像を伝えましょう

教師の仕事はガイドです。 ですから生徒に、いま歩いている場所を教えましょう。 学ぶ内容の全体像を生徒に教えましょう。 できれば大きな絵を描きましょう。ちょうど地図のように。 そして、

「あなたが今いるところはここだよ。いまからこの山に登るんだ」

と教えてあげましょう。

すべてを教えてはいけません

教師の仕事はガイドです。 ですから生徒にすべてを教えてはいけません。 またすべてを教えられると思ってはいけません。 ガイドは基本的な道案内をします。 しかしその道中で、生徒は思いがけないものを見つけるでしょう。 多くのものを生徒に発見させましょう。 教師が先取りしてすべてを教えてはいけません。 多くのものを生徒に発見させ、教師はともに喜びましょう。 その方が生徒は自分の足で歩き、自分の目で見ていると感じます。

教師が生徒に対して知ったかぶりをするのは、とても愚かな行為です。

教えるときの二刀流

教師はいつも、矛盾する二つのものを抱えています。 どちらに偏ってもいけませんし、どちらを捨ててもいけません。 けれども中庸とも違います。 矛盾する二つのものを両方とも最大限に用いるのです。 ちょうど二刀流のように。

二つの方法

教えるときには、 形式にこだわらずインフォーマルに教える方法と、 形式にきちんとのっとってフォーマルに教える方法の二つがあります。

はじめに例え話や、イメージを大づかみに示してから、 その後で厳密な証明や形式的な論理の展開、詳細なプログラムを見せるのは とてもよい順番です。

生徒にはその切り換わりを必ずしも意識させる必要はないけれど、 教師はこの二つを意識して使い分ける必要があります。

二つの表現

教えるときには、 言葉や記号を使って表現するとき(verbal)と、 図や絵を使って表現するとき(visual)があります。

それぞれの特性をうまく生かして効果的に組み合わせる必要があります。 教師でも生徒でも、verbalとvisualの片方でしか考えられない場合がありますが、 教師は(自分の性格は把握しつつも)意識して両方を使うと効果的です。

(といいつつ、このページではverbal informationしかないんですが…)

語るか聞くか

生徒に教えるためには、生徒に語らなければなりません。 生徒が考えていることを知るためには、生徒の話を聞かなければなりません。 語ることと、聞くこと。この二つを教師は最大限に用いる必要があります。

バランスをとろうとして、どちらも中途半端にならないように。 大いに語り、大いに聞く。 大胆に語り、大胆に聞く。 あなたの度量が試されるときです。

メタな立場

熱意を持って教えているときも、 教師はどこかで冷静に状況を観察する必要があります。 一人の生徒に対して語っているときでも、 他の生徒の動きや反応に目を配りましょう。

「内容を話している自分」と「生徒の様子を観察している自分」を意識しましょう。

広さと深さ

広く浅く教える方法と、狭く深く教える方法があります。

いま教えている内容を徹底的に理解させるまでやる方法と、 どんどん新しい内容で生徒を飽きさせないようにする方法があります。

生徒にたくさん手をかけてやる方法と、 思い切って生徒にまかせてしまう方法があります。

噛み砕いてわかりやすく教える方法と、 難しいものをポンと提示してやる方法があります。

どちらがいい、どちらがわるいとは言えません。 あなたは相反する方法を大胆に選び取りつつ教えるのです。

教えるとは、生徒との対話

教師は機械ではありません。生徒も機械ではありません。 生きた教師と生きた生徒が、対話をしつつ学ぶのです。

教えることは、知識を伝えるだけじゃない

あなたの知識を生徒に伝えることは大切なこと。 けれども、教えるというのは知識伝達がすべてではありません。 教師と生徒の間には生きた対話が必要です。 学ぶ題材を間にはさみ、学ぶということそのものも間にはさみ、 その「場」に集った教師と生徒が、生きた何かを行なっているのです。

それを通して生徒は学ぶ姿勢を学び、知識そのものを学び、 自己表現を学び、困ったときの対処法を学ぶのです。 そして多種多様な人格との接し方も。

対話は一方通行じゃない

対話はひとりではできません。 あなたが教えているとき、生徒はテープレコーダーのように聞いているわけではありません。 心の中で何かを受け取りつつ聞いているのです。 あなたはそれを理解し、引き出し、もう一度受け止めてあげましょう。

生徒の心に「?」が浮かんだことを察知して、そこを補う一言を。 生徒の心に「!」が浮かんだことを察知して、さらに発想を進める一言を。

生徒が一言も語らなくとも、対話が行われているのです。 教師は生徒に心を開き、生徒の声なき声に耳を傾けましょう。

対話の進み方は一定じゃない

はじめはゆっくり話そう。ゆっくり教えよう。 生徒が足を踏み外さないように。 けれども十分手応えがあるならば、わざと早く歩いてみよう。 時には駆け足で教えよう。走る喜びが伝わるように。 時にはダンスを踊るように教えよう。学んだことの美しさを知ることができるように。

対話は謙虚に

教えるときには、いつも謙虚になりましょう。

自信をもって教えることはとても大切。 けれども生徒の意見や質問には謙虚に耳を傾けましょう。 そこには貴重な何かが語られています。

謙虚になるのはいいけれど、 卑屈になってはいけません。 生徒に親しみやすくするのはいいけれど、 生徒にこびてはいけません。 生徒はすべてを見ぬきます。

教えるとは、はげますこと、ほめること

教師の仕事は、はげますこと。

学ぶためには、信頼関係が必要になる。 信頼関係はおどかしては得られない。

教師の仕事は、はげますこと。ほめること。 もっとほめること。どんな小さなことでもほめること。 生徒をほめて、ほめすぎることはない。

ただし、的外れなほめ方をしてはいけない。 ほんとうにほめるべきことをほめる。

教師の仕事はほめるべき点を見出すこと。

安心して質問できますか

生徒の質問をばかにしてはいけない。 どんな質問でもばかにしてはいけない。 誰でもはじめは初心者なのだ。

生徒に安心して質問させるように心がけよう。 どんな質問をしてもよいのだ、と納得してもらおう。 そのためには、どんな質問もばかにしないことだ。

生徒はびくびくしている。

「こんなこと質問してもいいのかな」

「もしかしたら、先生はもう説明しちゃったのかな」

「先生の話、聞いていないと思われたらどうしよう」

生徒はこんなことを考えながら質問しようか迷っている。 生徒の口を閉ざしてはいけない。

生徒に安心して質問させよう。 「よい質問だね」といってはげまそう。 生徒の質問内容だけではなく、その表現方法までよく見て、それ全体に反応しよう。 生徒の言葉の字面だけに反応しないように。

生徒をおどかしてはいけません

生徒をおどかしてはいけません。 生徒に「わかりませんと言ってもいい」ということをわかってもらおう。 安心して「わかりません」と生徒に言ってもらおう。

生徒をおどかしてはいけません。 生徒をおどかすと、生徒は簡単に「わかったふり」をしはじめます。 そして、わかったふりほど学習に邪魔になるものはないのです。

生徒をおどかしたがるのは未熟な教師。 生徒を恐れ、生徒の質問を恐れ、自分の未熟な教え方が露見するのを恐れている。 けれども、教師の恐れなんか、生徒はとっくにお見通し。

生徒をばかにしてはいけません

生徒の理解力をばかにしてはいけません。 それは教師の恥そのもの。 生徒に理解させるのが教師の努めなのですから。

ですから、生徒をばかにすることなく、生徒をはげまそう。 学ぶ喜びを教え、いままで学んだことからどんなすばらしいものが展開されるかを見せましょう。 細かい理解がおよばなくても、生徒は何かをつかむもの。

生徒をばかにした教師のことを生徒はいつまでも忘れません。 もちろん、生徒をはげましてくれた教師のことも。 あなたもそうでしょう?

生徒を恐れてはいけません

自分がわからない質問が来てもうろたえないこと。 自分が調べる姿や方法も生徒に見てもらいましょう。 自分が恐れずに「私にはわからない」と言ってる姿も生徒に見てもらいましょう。 そして真摯に調べ、次回にはていねいに答えましょう。

優秀な生徒と期待にそわない生徒

生徒が複数人いるとき、おのずと能力には(非常に)差があるものです。

教師よりも能力が高く、多くのものを発見し、 深い考察を行なう生徒に出会うこともあります。 教師はそのような生徒をねたみで殺してはいけません。

また、逆に、いくら教えても教師の期待に答えられない生徒もいます。 しかし、教師はそのような生徒も馬鹿にしてはいけません。

教師のつとめは、優秀な生徒も飽きさせず適切な課題を与え、 あまり優秀ではない生徒にも学ぶ喜びとやる気を与えることなのです。

ところで、いつまで教えるつもり?

教師は生徒にいろんなことを教えます。

それに応えるように生徒が教師を慕うのは、 教師にとってうれしいことです。 けれども、生徒がいつまでも同じ教師を必要とするのは健全なことではありません。

よい教師は、生徒が今後自分を必要としなくなるように教えます。 生徒がいつまでもいつまでも同じように教師を頼っているということは、 教え方が失敗しているとも言えるでしょう。

もしかしたら、慕ってくれるのがうれしくて、 自分が必要とされるのがうれしくて、 無意識のうちに生徒をしばってはいないでしょうか。

教師は、生徒を自分の枠に閉じ込めてはいけません。 自分の理解の範囲内に生徒を押さえつけてはいけません。

生徒が自分の頭で考え、自分の足で歩いていくのを 自分のわがままで止めてはいけません。

自分がもはや不要になったことを喜んで、 生徒を新しい世界に送り出してやりましょう。

あなた自身もそうやって送り出されてきたのですから。

付記:父の思い出

私の父は教育者で、幼い私の目にはずいぶん厳しく、こわい人だった。 私は小さいときから英語と科学と数学を父に仕込まれた。

父は、英語にはコンプレックスを持っていたようで、私に英語を学ばせた。 ネィティブの発音が重要だと考え、私には直接教えようとはしなかった。 リンガフォンや教材のテープを使って、 英語に親しめるように努力してくれたのをよく覚えている。

もう退職したが、父は理科の教師をしていた。 父は、私にはんだごての使い方を教え、電子工作の類を教え、抵抗のカラーコードの読み方を教え、 プリント基板の作り方と二酸化第二鉄の溶液によるエッチングの仕方を教えた。

父は、私にアマチュア無線の資格をとらせ、ディップメータを使ったアンテナの調整を教え、 高いタワーに昇るときのコツを教えた(必ず同時に3点で体を支えること)。

父は、ドライバの使い方、安定化電源の使い方、ISOのネジとJISのネジの違い、 ワイヤストリッパの使い方、それがないときニッパでリード線の被覆を剥く方法、 ラジオペンチの使い方を教えた。

祖父は父に、農業を教える教師になってもらいたいと思っていたらしい。 それは祖父の夢であった。しかし、父は、理科を教える教師になった。

父は私に、将来は電子工学に進んでもらいたいと思っていた。 それは父の夢であった。しかし、私は、コンピュータの方面に進んだ。

プログラミングの本を書くようになってから、 私は本を書くことが「教える」という仕事であることに気がついた。 私は父や祖父と同じ道を歩んでいたのである。

いつのまにか、私も父になっていた。 私は息子に何を教えるのだろう。 息子は私から何を学ぶのだろう。

付記:教えることについての独り言

メールマガジン『Perlクイズ』は読者から大きな反響があります。 読者からの熱烈な応援メールを読みながら、 やはり、私は「教師」なのだと思います。 私の父は教師で、私にもその血が流れているのです。

家内に言わせれば長男も「教えたがり」だそうで、 息子にもその血は少し受け継がれているようです。 不思議なものですね。

文章を書く人間や個人ホームページを開く人間は 程度の差はあれ自己顕示欲が強いことは否定できません。 本を書くことだってそうです。自己顕示欲がある。 でもそれだけでは文章は書けない。書きつづけられない。 自分の中からだけでは、よきものは出てこないからです。

自家中毒を起こさずに、水ぎわで水仙の花にならずに、 文章を書きつづけるためには、他者が必要だと思っています。 自分を客観視する視点、自分以外の何か・誰か、 自分に何かをフィードしてくれるもの、 それがないと、本当に単なる自己満足(まあそれでもいいのですが)。

あちこちで書いていますが、

"Remember that the object of exposition is education, not showmanship." (by Jeff Ullman)

「説明(解説・執筆)の目的は教育であって、ショーマンシップではないことを忘れるな」

という言葉を思い出します。

私は文章を書く。 うまいへたは別として、文章を書きつづけていくと思う。 そして私の書く文章は「教師」の文章なのだと思う。 教えたがり、説明したがり、面白さやワクワク感を伝えたがる、そんな文章。

考えてみれば、プログラムを書くというのは、 コンピュータに対して「これこれこういうことをしなさいよ」 と教えていることに他ならない。ふむ。ふむふむ。

教師のお手本は「イエスキリスト」です。 イエスさまは救い主であると同時に教師でもあるのです(ヨハネ3:2など)。

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読者のみなさんからのフィードバック

今家庭教師をしています。 教えている子が前回の定期テストで平均を大きく下回る点数を取ってきたために、 バイトを辞めさせられそうになったのですが、食らいついてなんとかまだバイト続けています。 何度も同じことを教えたのになかなか憶えてくれないし、 親御さんからの勉強の要求もあるので、少し行き詰まってしまいました。 もう一度自分の教え方を見直そうと思って、このページを見つけました。 そして自分の無計画でただ楽しいだけの教え方に気がつきました。 簡単な事でも計画を立てて教えなければいけないなと感じました。 (21歳 大学生)

はじめまして。 私は今年大学生になったばかりでこれから 塾講師や家庭教師のバイトをしようと思っています。 私は今まで他人に何かを教えたことが一度もなく、 多分、他人に自分の思っていることを伝えるのは苦手なので 少しは教え方を心得なければと思い、教え方を調べていた所 あなたのサイトを見つけました。 教える時の心がけについての文章でこんなに感動するとは 思いませんでした。 とても参考になりました。ありがとうございます。 てきとうに気軽なバイト感覚で教えるのは簡単かも しれないけど、ちゃんと生徒のため自分のためにもなる 教えを実践するのは奥が深いと思いました。 あなたの文章で、教えることは簡単なことではないと 思いましたが、なぜか気が楽になりました。 私はまだまだ未熟なので本当はもっと勉強してから でないと自信を持って教えることはできないとわかって いるのですが、夏休みの機会に少しでも教え方や コミュニーケーションを学んでおきたいのです。 教え方が下手でもなるべく最善をつくして 自分のコミュニケーション能力向上にもつながるように がんばろうと思います。 私は無神論者で信じられるのは唯一自分だけなのですが、 キリスト教の愛の精神には感動させられてしまいます。 これからもこのようなよい教えを広めていってください。

はじめまして。 最近自分のことを【あつくないなぁ】と思っていました。そこで初心にかえろうと、 このページにたまたまたどりつきました。これまでの自分、最近の自分を省み、自分を振り返るのに大変参考になったと思います。 あと、もしできれば、なのですが、生徒のためを思って忠告などをする際の、あなた様の考えを教えていただけたら、と思いました。 最後になりましたが、ありがとうございました。(塾講師)

結城から: フィードバックを感謝します。 私は「気持ちは教師」ですが、実際に生徒に教えたことはないのです…でも、思うところを書きます。 「生徒に忠告する場合のポイント」は2点あると思います。 1つは 「愛をもって真理を語る」 ということ。 これは、相手の欠点やまずい部分だけにフォーカスをあてて突き放すのではなく、 きちんと「あなたを受け入れていますよ」という態度を相手に示しつつ語るということです。 たとえ相手のまずいところが確かにまずいところだとしても(つまり、先生の言う言葉が真理だとしても)、 相手を受け入れる愛がなければその忠告はよくない、と思います。 もう1つは 「忠告は、人前では行わない」 ということ。 つまり、生徒が他の生徒の前で「恥をかく」という状況を作らないということです。 人前では明示的にほめる方がよいと思います。 以上、勝手ながら思うところを書きました。 何かの参考になれば幸いです。 「教える」という仕事はとても大切な仕事です。 あなたのお仕事の上に神さまの祝福がいつもありますように。

 読んでいて荒んだ心が穏やかになりました。それにどの話も具体的で 落ち度がなく、適格で、素晴らしいです。私は日常で、これらを網羅で きるようにしたい、知恵が欲しいと読みながら祈ったほどでした。 (28歳)

今年で教員になって5年目ですが、また初心に戻れたような気がします。情報技術の流れは目覚しく、 今年、教えた内容が来年は古いものになってしまう世の中です。 好奇心をもって、いろんな分野の事を勉強していこうと思ってます。 また、インターネットの発達で、生徒は、Webやe-mailでいろんな情報を自分の力で、 収集することができるような時代になってきました。昔のように、教師が生徒に、 何かを教えるという縦の関係から、「共に学ぶ」、 「共に調べる」または「生徒が得意なものを教師が学ぶ」 という横の関係を持ちながらの授業もでてくるんでしょうね。 (20代 高校教師)

 私は学部生に物理学や数学の初歩を教えています。中学や高校などの内容を教えるのはひどく苦手ですが,大学で学問を教えるということに関しては大きい情熱と能力があると人から言われます。  教育はコミュニケーションによって成り立つというのが私の持論です。大学教員の多くは,自分の教える学問内容に気持ちが傾きすぎて,教わる側の気持ちや心をあまり考慮していないようで,学生が学問に打ち込もうという意欲を持てないのは,責められることではないと思っています。  私は,結城さんの文章のように,暖かくふっくらとした文章が好きです。学ぶ意欲が湧いてくるからです。私は講義では,たいていプリントを作りますが,そのとき暖かくふっくらたした,もてなしの気分をもった文章あるいは内容をつくることを心がけています。そしてふだんの授業のときでも,こちらから学生へ働きかけ,気持ちをやわらげ,取り組むきっかけを引き出すよう配慮しています。  それがよい効果をもたらしたかは測ることは難しいですが,学生の感想を聞くと,学問を学ぶことへの意欲を培うことに貢献しているようで,私としては教師冥利につきるという重いです。  もちろん,結城さんが書かれているように,教わる側が教師にいつまでも依存していては意味がありません。教師は教師のおかげで学ぶことができたと感じないで,自分の力で学ぶことができたと思う教え方をしていかなければならないと思います。その点ではまだまだ私は未熟ですが,少しずつ実現していこうと思っています。  結城さんの文章は,そういったことを考える上でも,何か心の内側で心得を醸造できる,たいへんうれしいものだと感じています。ありがとうございます。 (23歳 大学院生)

こんにちは。URLが変わってから初めて拝見しました。 とても参考になりました。今までと違った方法で「教える」 ことができるようになった気がします。 (36歳 SE)

私は「ばかにされること」「びくびくさせられること」を、とても恐れていると自分で思います。 自分自身で、「あー、ここが駄目だ」といって反省するのとは違って、 外からの圧力みたいなものが、いやなのです。 会社員をしていますと、こんなことは日常茶飯事なので、それなりにしのいでいますが。 でも、この年齢になると、若い方々に対して、教えることももちろん、 どうやって仕事を全体で進めていくか、その時に、恐れを抱かせず、無理強いさせず、 自分から動いていってもらうにはどうしたらいいんだーーと悩む毎日です。

こんにちは。ゆっくり読ませていただきました。 教えることの深さ…みたいなのを漠然と感じていたのですが、 改めてまとめてくださったのを読んでとても啓発されました。 いろんな背景を持ってこられるお客さんのことを普段勉強するようになりました。 すると、質問を聞くことができるようになりました。 以前は、聞き方がすごく浅かったように思います。 実は、「わざとゆっくりやってみる」というのもトレーニングで取り入れさせていただいたりしています。 案外時間的ロスは少ないですね。わざとゆっくりやっても… 「教える前に、自分を整える」というのはすごく大切なことですよね。 祈りつつ毎回トレーニングに心を向けるようにしているんですが、仕事が忙しくなると、駄目です。 心を向ける時間のないままに突入すると、心を整えつつ走ることになって、 生徒さんに対して申し訳ない気分でいっぱいになります。 トレーニングラッシュだった4〜6月、ちょっと反省の時間を7月はもてそうです。 アンケートをゆっくりよみつつ、またこのページに立ち寄らせていただきます。 感謝です。 (←クリスチャンなんですよ。 実はクリスチャンページの検索をしてて結城さんのページにたどりついたのです。 旧約の日記などいろんなところで啓発を受けています。楽しみにしています。では)

自分の質問が派生してホームページのネタになるなんて 思ってもいなかったので、とてもうれしいです。 プログラマーという仕事柄、普段は大勢の人と対話することが無かったので、 とても貴重な体験をしました。 人に物を教えるって、大変だけど面白いものですね。

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