ちゃんとどこかで全部つながっている

結城浩

2001年9月1日

淡々と仕事をするのはいいんだけれど、合間におむつを変えたり、 息子たちをお風呂に入れたり、ねかしつけたりしていると、 マルチスレッドのプログラムを書いているのか、 自分がスレッドの1つになってしまったのが判然とせず、 なかなか疲れたりするのでありました。

さっきも山形浩生勝手に広報部部室をのぞいたりしていたんだけれど、 そのとき気がついたのは、結城がはじめてWikiに出会ったのは、 ここだったな、ということ。 たぶん部長の玲奈さんが設置したもの。 で、Wikiを触っているうちに、これはすごいと気がついて、 大元のCunninghamのWikiを調べはじめ、自分でもYukiWikiを作る。 で、デザインパターンだのリファクタリングだのエクストリームプログラミングだのと いうのを調べていると、その中にCunninghamさんがいて、 で気がついたのはWikiでパターンの話をやっている。 どうも私は鈍いというか気がつくのが遅いというか。 でも、面白い面白いと言いながら糸をたぐっていくと、 ちゃんとどこかで全部つながっているのがまた楽しい。 こういうのも神さまの御はからいなのだろうと思う。

自分の「これ、面白そう」という感覚は大事にするのがよいのかもしれない。 面白そう、楽しそう、何かが広がりそう、いろんな可能性がありそう… そういうものを自分なりに受け止め、自分なりに消化する。 そして自分の理解した範囲で構わないから言葉にして表現する。 そしてそれを可能な限り惜しみなく公開する。 すると、それに対してやはり同じように興味を持ってくれる人がいる。 インターネットのおかげで、そういう人とのやりとりをするのは 本当に楽になった。

自分の理解の範囲、それは完全には程遠いのだけれど、 それを表現すると、そこを足がかりにして展開してくれる別の人がいる。 それはとても大事なこと。 自分で全部を抱え込んでしまうと、それはそれでおしまい。 そうではなくて、全部外に出しちゃう。公開しちゃう。 とりあえず、これでどうだ、とオープンにしちゃう。 もしかしたらごそっと「パクられる」かもしれない。 「そんなことしか知らないのか」と馬鹿にされるかもしれない。 でも、それでも構わないんだ。 他の人に伝えるために、情報を整理したり表現を整えたりすることは、 それがそのまま自分の勉強になるから。 それは決して無駄にはならない。 そして、Wikiやデザインパターンのように、ときどき思いがけない実を結ぶのだ。

主の御名はほむべきかな。