作品を公開するのは、他の人の批判に身をさらすことでもある

結城浩

2000年1月28日

バザール方式と著者のオープンさの度合いについて少し考えた。 連載でも著書でもWeb日記でも何でもいいけれど、 何か作品を公開するということは、他の人の批判に自分の身をさらすということでもある。 ホームページを運営している人は誰しも経験があると思いますが、 自分が書いた文章に対して、 レスポンスが思わぬ方向からやってくるというのはめずらしいことではない。 見当違いの批判とか、単なる誹謗中傷とか。 建設的な意見だが感情的なメールとか。掲示板の変な書き込みとか。 まあそういうものが多かれ少なかれやってくる。 一発目のパンチでもういやになって公開をやめちゃう人もいるし、 攻撃には攻撃をもって戦う人もいる。 無視する人もいるし、受容する人もいる。

私はどちらかと言えば受容する割合が高いと思っている。 私は自分の書いたものを愛していて、 それに関わってくれる人のことは大概は好きになる(たとえ批判でも)。 本当にまったく見当はずれの意見というのは実は少なくて、 何らかの真実を含んでいることが多いものだし、 批判者自身が言葉の選び方を間違っているだけのことも非常に多い (そんなつもりで言ったのではない、ってやつですね)。

私が避けたいと思っているのはそういう意見や批判のチャンネルを「切る」ことである。 自分の周りにイエスマン(迎合する人)だけを置きたくはないのだ。 「何でも私におっしゃってください。お返事は約束できませんし、 あなたの意見をすべて取り入れるわけではないですが、 何か思うことがあったら、何でも言ってくださっていいんですよ。 いつでも、どんな内容でも、どんな表現形態でもいいので、 あなたの好きなように私に伝えてくださいな」 という姿勢でいたいような気がするのである。

あっ、だから私はいろんなチャンネルによるフィードバックを用意しているのか。 「結城浩メーリングリスト」「ロバ耳」「subsession」「フィードバック」「メール」 「掲示板」「Letter」…ええと、ええと。 ふうん。なるほどね(何をいまさら)。 実際、 読者からのメールでプログラムの間違いや、Webデザインのまずさや、 霊的な間違いに気づいたこともたくさんあるのだ。 その多くは、たぶん、送った方はそれほど意識していなかったかもしれない。 でも、私にとっては重要な、かけがえのない一言だったりするのです。

私はインターネットのオープンさ、 というものはうまくその性質を利用すると、 大きく役に立つと思っている。 そのときに必要になるのは、自分にやってくる「批判」をどう受け止めるかによる。 私が作ったものは私の作品である。 Webも、プログラムも、文章も。すべて私が書いたものだ。 でも、私はそれが完全だとは思っていない。 多くの人の目にさらされ、いろんな環境で試されると、 もっとよりよいものに育っていく可能性があるのだ。 多くの人からの意見や批判を受けた私が、私というフィルタを通して各作品をブラッシュアップしていくと、 それは私らしさを失わずに、しかも多くの人の助けを借りてよりよいものになると思う。

ですからこれをお読みのみなさん、ぜひお気軽にフィードバックをくださいね。 そしてインターネットで作品を公開しているみなさんも、 うまくフィードバックを活用してあなたらしい作品を育ててあげてください。