自分の「弱さ」をなおすにはどうするか

結城浩

2000年2月20日

日記めぐり中「山羊歩当棒録」で急に自分の名前が登場してびっくりしてしまった(2000年2月19日)。

 > 結城さんだったら人の「弱さ」をなおすのは「人」ではなく「神」だというかもしれない。 

私だったら「弱さをなおすのは神だ」と言う以前に、 「神様は、あなたの弱いところにこそ働かれる」と言うと思います。

確かに、私たちの人生をややこしくし、ままならないものにするものの一つに私たちの「弱さ」があります。 「道徳的な弱さ、意志の弱さ、そして存在そのものの弱さ」と村上春樹が書いている通り。 そして私も含めて多くの人が、自分が感じる自分の弱さを「努力」などで何とか克服しようとする。 そしてうまくいったり、うまくいかなかったりする。 ずっともがきつづける場合もあるし、そのうちに諦めの境地に至る場合もある。 でもそこには人間中心的な前提がある。

人間を中心にした考え:

  • 私は私のことをよく知っている。
  • 私のこの部分は弱さであり、そこは矯正されるべき部分である(と私は知っている)。
  • 自分の努力で(知識で、誰かの助けで)その弱さは克服できるのだ / この弱さは何をもってしても克服できないのだ。

以上のような項目が隠れた前提条件になっている。 実は、弱さを語るときですら、人間というのは自分に対してずいぶん過剰な信頼を置いているのだ。 自分の考えは正しいという信頼を置いている。

神様を中心にすえた視点は違う。

神様を中心にした考え:

  • 私はこれが私の姿だと思っているが、神様の目から見たら全く違っているかもしれない。
  • 自分のこの部分は「弱さ」のように見えるが、神様に適切に用いられるときそれは私のもっとも「強い」部分になるのかもしれない。
  • この部分だけを「矯正」すべきではなく、自分の人格全体の中で取り扱われるべきなのかもしれない。
  • 自分に見えるこの「弱さ」は1つの「結果」あるいは「症状」にすぎなくて、それをいじりまわしてもしょうがないのかもしれない。
  • 自分の努力でできる範囲は非常に限られているが、神にできる範囲は無制限である。何しろ神様は私自身を作ったのだ。
  • 自分にはこの弱さは克服できないが、神にはできないことはない。もしも克服することが可能であり必要なら、神はそれをなしてくださる(信じて求めれば)。

神さまが働くときの「価値の大逆転」は人間の思いをはるかに越えている。 代表的な例を1つだけ。 キリスト教の中心となるシンボルは「十字架」だが、あれはもともと墓場や死を表すものですよね。 しかしキリスト教ではあれこそが愛であり、救いであり、復活であり、命なのです。 人間の狭い考えをふきとばすような「価値の大逆転」が、キリスト教にはあるのです。

…私だったらこんな風に答えます。山羊さんへ。(^_^) 山羊さんの弱さにも主が触れてくださり、主からの平安が与えられますように。