『暗号技術入門』の読み合わせ

結城浩

2003年8月6日〜8月26日

目次

初校の読み合わせ

『暗号技術入門 —— 秘密の国のアリス』の初校読み合わせ。

今回は約3時間半。でも、疲れました。 編集長と二人でみっちり読み合わせして、二人とももうバテバテです。 でもまあ、ここで細かい修正をして、少しでも読みやすく・理解しやすいものにするのは、 著者と編集者のお仕事ですから、バッチリやるしかありません。 だって、ここで決めたことが何千冊(あるいは何万冊?だったらいいですね)と増殖して 日本全国に散らばっていくわけですから、がんばって質を上げる価値がありますよね。

で、志は高く、作業は地道に進むわけです。 今回は全体的に「書きすぎ」ている部分が多いと思っているので、 刈り込みぎみに進みます。 刈り込めば刈り込むほど、テーマはくっきりわかりやすくなり、 テンポは軽くなり、読みやすくなるという道理です。 しかし、はっきりいって、作業内容は愚直を絵に描いたようなものですね。

編集長「ここは『こと』が三つ重なっていますね」

結城「確かに。じゃあ、これは「の」にして、こっちはトルで」

編集長「ここはクーリエでよろしい?」

結城「はい。あ、そこは『暗号文』ではなくて『鍵』です」

編集長「ああ、なるほどなるほど。そうです」

結城「ここはローマンにしてもよい?」

編集長「はい。それもそうですが、ここは級数をもっと落とします」

結城「ここのダブルクォートはクーリエですが、“ ”にしたいんですが」

編集長「ただ、中身がクーリエなので、ちょっと合うかどうか」

結城「じゃあ、なしにしましょうか」

編集長「そのほうがすっきりするかと」

結城「この朱、わかりますかね。矢印を上を回すのではなく、下を回す」

編集長「ええと、あ、大丈夫です。問題ありません。この図は場所をとりすぎているのでここを切って縮めます」

結城「こっちはいいんですけれど、こっちは切らないでください。線を細くして分かれている様子がはっきりわかるように」

編集長「ははあ、じゃ、そうしましょうか。うーむ。このリストがちょっとよくわからなかったのですが」

結城「あっ、これは改行が変ですね。送ったのをそのままフィルせずに入れていただければいいんですが」

編集長「じゃ、そうしましょう」

結城「ここの網掛けはやめませんか」

編集長「もうやめてあります。ここはこちらのインデントで…」

結城「はいはい、そうです。OKです」

編集長「この『ビット長の強さ』というのは表現としてどうかと」

結城「あっ、それはここに「長さ」と補うことにしましょう」

編集長「このページは特にないです」

結城「私も特にないです。ここは縦を揃えてください」

編集長「うーん。それでは、左側を例外的にすこしはみださせましょう。こちらも?」

結城「そうですね。あ、こっちはこの"1"だけは、ボールドにしないでください」

編集長「これですか?」

結城「はいそうです。これはパディングの経過を表現しているので、こっちの"1"はボールドで、でもこっちの"1"は普通のクーリエで」

編集長「はい、問題ありません。ところで、ここの数字は0, 1, 2でよろしい?」

結城「その図はうそがあったのでリライトしました。数字はそもそもなくなります」

編集長「本文のほうも?」

結城「はい。なくなります。そのほうが数学っぽくなくてよいです。図は今晩メールします」

編集長「よろしくお願いします。ここは矢印がないとわかりにくいですね」

結城「そこは、こう直してください。こうですね」

編集長「それはいいですね。ここではまだPKIの説明をしていないと思うんですが」

結城「この後の本文にでてくるし、そこはよしとしましょう」

編集長「そうですね。そうしましょうか。ここで鍵を削除しているのはすでに手遅れだと思うんですが、どうですか」

結城「(考える)…んー、ここの前の段落から書きなおしましょうか」

編集長「よろしくお願いします」

結城「(書く)…こういうのではどうでしょう」

編集長「(読む)はい…はい…はい、結構です。…どうです。一度休憩しましょうか」

結城「そうですね。休みましょう。今回はけっこう順調ですね」

編集長「ですね。でも、二時間はすでに経っていますが」

結城「うっ、本当ですね」

…というような感じだ。 この調子で3時間半びっしり。

こんな作業は、 ぜんぜんセクシーではないし、はたで見ている人がいたら、きっと面白くも何ともないだろう。 ひとつひとつの修正に気がつく人はおそらく読者の中でもほんのわずかのはず。 でも。でも、そのちょっとした修正の集大成が読みやすい本と読みにくい本を分けるのだ。 まさに「神は細部に宿る」のである。

で。 私も編集長も、 実は、そういう仕事が大好きなのである。

神さま。今回も楽しく有意義な読み合わせの時間をありがとうございます。 神さま。あなたは祈りを聞いてくださる方。 10年前、強い風が吹き抜ける井の頭線の吉祥寺のホームで祈った、 「本を書かせてください」という祈りをあなたが聞いてくださり、 私の想像を越えた形で成就してくださることを心から感謝します。

いま、私は大いなる主をあかしいたします。 あなたは約束をたがえない方です。 あなたは祈りを聞いてくださる方です。 あなたはもっともよい恵みをいつも与えてくださる方です。 まことにあなたはほむべき方です。 イエス様、あなたに感謝します!

この小さき祈り手が、いつも初心を忘れず、 読者のことを忘れず、またあなたの恵みと哀れみを忘れずに、 謙虚な思いで仕事をすることができますように。 時がよくても悪くても、熱心に祈り、家族に感謝し、 支えてくださる多くの人々に感謝して、日々を歩むことができますように。

今回の本もあなたが完成させてくださり、必要な読者に本書を届けてください。 あなたに栄光をお返しいたします。 賢明に仕事をなさっている編集長さん、それに組版の方、デザイナーさん、 営業・販売・広告の方、 多くの関係者の上に、神さまの祝福が豊かに・あふれんばかりにありますように。 ひとりびとりの手の業が主によって導かれ、 ほんとうに「よいもの」を生み出すことができますように。 そしてまた何よりも、一人でも多くの方が、イエスさま、あなたを知ることができますように。

あなたにすべてを感謝し、イエスさまのお名前で祈ります。

アーメン! 感謝します!

再校の読み合わせ

今日は拙著『暗号技術入門 —— 秘密の国のアリス』の2度目の読み合わせ(再校の読み合わせ)でした。 家を出かける前、私は「おーいみんなー。祈ってー」と家族を招集する。 食卓の上に再校用紙を置き、家族みんながその上に手を置く。 家内が、私のこと・編集長のこと・この本に関わるすべての人のことをイエスさまにお祈りする。 みんなで「アーメン」と唱和する。 家族で祈れる喜びを神さまに感謝。

前回の読み合わせの話 にはけっこう反響メールがあったので、今回も少し詳しく書いてみましょう。 前回の読み合わせは約3時間半でしたが、今回は短くすんで約2時間半でした。 いつもと同じく編集長と1ページ1ページめくりながら疑問点の解消などを徹底的に行います。 最後には二人とも疲れ切っておりました。 でも、いくら疲れても手は抜きません…というか、二人とも手を抜かないのでいつの間にかくたびれているというほうが真実に近いので、あまり自慢はできない。 それから、

一生懸命やったからといってよい本になるとは限らないが、一生懸命やらないとよい本にはならない

ということは心に留めておかねば。

ともあれ、地道に愚直に編集作業は進むのです。 おじさん二人が原稿はさんで2時間半。 ちなみに、机をはさんで向かい合わせではありません。大きな机に二人が並びます。私が右、編集長が左。 この体勢がいちばん読み合わせには楽。向かい合わせだと原稿が互いにさかさまになるから。

編集長「ここは「の」を入れたほうがよろしい?」

結城「あ、そうですね。入れてください。そこはどうするつもり?」

編集長「ここは前に出てきているので欧文をトルで」

結城「いえ、これはこっちとの対比で出しているので、トルは困ります。」

編集長「なるほど。ではこのままで。前回確認したんですがfはどちらで。立体で?」

結城「いえ、数学のフォントで全体をあわせます。」

編集長「はい。ここは「最後」または「最終ラウンド」と入れますか。」

結城「本文が「最終ラウンド」ならそれに合わせて。この参照ページはDiffie-Hellman鍵交換ですか。」

編集長「そのはずです。違ったら困ります。確認してみましょうか…そうなっていますね。」

結城「はい、OKです。」

編集長「このソルトは外か中かという…」

結城「あ、それはもう直してあります。中です。」

編集長「はい、はい。ではその通りに。こちらの参照ページがわからなかったのですが。」

結城「あ、それは直しました。参照ページはトルで。」

編集長「ここに「ある」を入れてもよい? 「ある一方向ハッシュ関数…」とします。」

結城「…はい、そうしてください。いいですね。「ある…それ…」の対応ですね。」

編集長「この『少なくても512ビット以上』は「以上」は不要?」

結城「う。確かに。不要です」

編集長「ここは平文ブロック1でよろしい?」

結城「ええと、図はどうなっていますか。…はい、はい。それでよいです。」

…というような感じ。 初校の時よりも個数は少なめ(朱の個数は数百箇所くらいだろうか)だけれど、 その分だけチェックポイントが細かくなっているので、 手間はあまり変わらない。

ちょうど索引の初校も出ていたので、さくさくとチェック。 索引項目がちゃんと対応するページにあるかどうかは編集部のほうですべてチェックしてくれるので、 私は項目を読み直して適切な項目が出ているかをチェック。

校正は、 紙やすりの目を少しずつ細かくして、磨きをかけているのとよく似ている。

読み合わせが終わったあと、疲れきった編集長と二人で、よろよろと夕食を食べて情報交換。 編集長から、 最近アマゾンで「暗号」を検索すると『暗号技術入門 —— 秘密の国のアリス』が1位に来る、 という話を聞いて喜ぶ。

編集長「そういえば、この暗号本は本当にプログラミングの本ではないんですね。 結城さんの本でプログラミング以外というのは初めてですね」

結城「そうですね。もちろんプログラマが読んでも面白いと思いますけれど、プログラミングに興味のない人でも面白く読めるんじゃないでしょうか。暗号技術の仕組みに知的な興味を持っている読者なら楽しめると思います」

編集長「いまさらながら変な話ですが、再校になってさらにじっくり読み込むと、この本は非常に面白いですね」

結城「(笑って喜ぶ)そうですよね。私も自分が書いていて言うのは何ですが、非常に面白いです。どんなところに面白さを感じましたか」

編集長「なんというか…人類はここまで到達したのか、という感じでしょうか。はじめのほうのシーザー暗号や単一換字暗号、それにエニグマの話、対称暗号なども面白いですが、やっぱり白眉は公開鍵暗号ですね。この仕組みが結城さんのわかりやすい文章で説明されると、うなってしまう面白さがあります」

結城「説明の流れ自体はオーソドックスなんですが、噛み砕いて説明されると「なるほど!」と思いますよね。RSAなどは本当にシンプルですし。私自身も驚きました」

編集長「もちろん高度な数学なんですが、文章を読んでいるときにはそのことをあまり意識しない。せいぜいちょっとした算数?くらいのイメージですね。たとえ話も、よいです。厳密にいえば違う点はありますけれど、話を理解する上でとても効いている」

結城「ですよね(にっこり)」

編集長「認証の話もトントンッと読み進められました。デジタル署名と証明書で、「信用」というものの意味を考えさせられますね」

結城「私も考えちゃいました。信用がどういう風に生み出され…厳密には生み出されていないんですけれど、何をどういう風に信用するかというのが、技術を背景に浮かび上がってきますね」

編集長「ずっと説明してきた暗号と認証の話が、PGPの章で総合的にまとめられるところもいいし、それからweb of trustも」

結城「あの解説文はおそらく一番わかりやすいweb of trustの解説だと思いますよ。私、たくさんの本を読みましたけれど、すっと理解できたものはありませんでした。自分であの説明文を書いてやっと理解しました」

編集長「あっ、そうなんですか。私は結城さんの文章しか読んでいないので、すっと理解しちゃいましたが。 シュナイアーの『暗号技術大全』もバイブル的な本としてかなり人気がありますが、 結城さんの『暗号技術入門 —— 秘密の国のアリス』も読者に喜んでもらえると思いますよ」

結城「だといいですね。 あの『暗号技術大全』を短期間で仕上げた翻訳チームもすごいですが、 最後にまとめた山形さんも素晴らしいです。 監訳でありがちなごつごつ感がないです。 もちろん最後に編集作業をなさった編集さんも大変でしたでしょうけれど」

編集長「分量も分量ですが、内容も難しいですからね。 他の本といえば、サイモン・シンの 『暗号解読』にはドラマがありましたが、結城さんの暗号本にもドラマというかストーリーがありますね」

結城「そうですね。『暗号解読』の人間ドラマはとても面白かった。 青木さんの翻訳で読めたのは幸せなことです。 私の本には人間のドラマは少ないですけれど、暗号の仕組みを追うだけでも十分ドラマになりますね」

編集長「結城さんの暗号本は、各章がばらばらではなく、ずっとつながっていくストーリーがあって、最後まで思わず読んでしまうような。あれは、結城さん自身が何かを見つけつつ、発見のプロセスを書いているからでしょうか」

結城「そういうところはありますね。 本を書きながら自分が順次発見していったこと(といっても、私にとっての発見なのですが)をその都度まとめていき、最後に最終章でしめる、という形になっていますね。書いていてわくわくしましたし、校正で読みながらもすごく楽しかった」

編集長「なんだかんだいって一年ほどかかりましたね」

結城「かかりましたね。申し訳ありません」

編集長「いえいえ、大丈夫です。売る側のほうも結城さんの本ということで期待して待っていますよ。私のほうからもたくさん宣伝をしておきます」

結城「よろしくお願いします。私のほうはよい本を書けて楽しいのですけれど、必要としている読者にこの本がきちんと届くのは、出版社の営業・販売のかたのおかげだと思っています。どうぞよろしくお伝えください。いつも感謝しています」