リベラさんの虚無と結婚

夢の中の対話シリーズ

結城浩

仮想キャンプもそろそろ終盤だ。いつもはさわやかな風が流れるこのあたりだけれど、今日は風がまったく吹かず、なんとなくどんよりしている。音楽ホールで行われた有志によるミニコンサート(結城は演奏者ではなく聴衆です)の後、Javaプログラマのリベラさんという女性に声をかけられた。私は、なぜかラウンジでコーヒーを飲みながらスレッドの解説をすることになった。

リベラさんに向かってJavaのマルチスレッドプログラミングの解説をし終えるころ、急にリベラさんが「つまんないんですよ」と言った。

私はあせった。「あ、ええと、まあそうですね。普通はプログラマはこのあたりを意識することは少なくて、スレッドの扱いはフレームワーク側で考えることが多いでしょうから。」

「あ、ごめんなさい。結城さんに向かって言ったんではないんです。いまご説明を聞きながら、ちょっと別なことを考えていたんです」リベラさんもあせって言いつくろった。

「本当に失礼しました。だいたいスレッドの話はわかりました。ありがとうございます。共有する領域を持つ代わりにきちんと排他をしないといけないのですね。」リベラさんは言った。リベラさんは長身の女性で、オレンジの細いボーダーのTシャツを着ている。顔には細かいそばかすがたくさんある。

リベラ「わたしは、Javaでプログラミングするんですが、あまり大きなものを作れるわけではなく、何ていうんでしょう、ソフトの端っこの小さなクラスを作っているくらいです。」

結城「なるほど。」

リベラ「でも、何ていうか、仕事はもういいんです。めどもたっているし。最近思っていること、何ていうか、むなしいことが多いなあって。」

結城「むなしいこと?」

リベラ「たとえば、プログラムを作ります。仕様書を読みました。がんばって作りました。一生懸命バグを取りました。はい一年たちました。もうそのプログラムは使わなくなりました。ちゃんちゃん。そういうことはままありますよね。」

結城「まあ、ありますね。一年だとどうかわかりませんが、三年、五年使い続けられるソフトは意外と少ないでしょうね。」

リベラ「ええ。使わなくなったプログラムはゴミです。ゴミになってしまったプログラム。ゴミ。いえ、ゴミなら皆がその存在を意識しますよね。あ、ゴミがある、って。でも使わなくなったプログラムはみんなから忘れられます。存在がなくなります。忘れられたプログラム。」

結城「…」

リベラ「私ががんばって作った時間。バグを取った努力。それはどこに消えてしまうんでしょう。どこに消えていくんでしょう。ありがちな不満かもしれないんですが。はじめのうちは必死でした。でも、いつのまにか、その熱心さは失ってしまいました。覚めた目で自分の仕事を見ています。」

結城「熱意がなくなってしまった?」

リベラ「そうですね。仕事としてはそれなりにやります。バグを取ります。徹夜もします。ほかの人と協力もします。打ち上げのビールは最高です。でも、心の中には虚無があります。」

結城「虚無?」

リベラ「そう、むなしいっていうか、虚無です。私のいまのがんばりはどこにつながるのか、どこにもつながらないや、と。」

リベラさんは、窓の外を見る。私も窓の外を見る。空の雲はまったく動かない。

結城「ちょっと話がずれるんですが、リベラさんは独身ですか?」

リベラ「結婚はしていませんが、付き合っている相手はいます。というか、一緒に住んでいる彼がいます。式はしていないし、籍もいれていませんが、まあそういう相手です。」

結城「彼はどんな方? あ、もしよければ、ということですが。」

リベラ「別にいいですよ。私はこういう仕事をしていますが、彼はあまりこう、理詰めの話というのは苦手で。そもそも彼は働いていないんですが。」

結城「フリーターのような感じ?」

リベラ「というか、気分のままに暮らしているといったほうがいいでしょうか。でも、悪い人ではないです。」

結城「ふうん…。」

リベラ「悪い人じゃないんですけれど…ときどき、ほんとに時々、破裂したように私にあたることがあります。文字通りに。ものを投げてきたり、私に、そのう…。」

結城「暴力?」

リベラ「ええ。あ、でも、大したことではないんです、けとばすとかそのくらいで。」

結城「…」

リベラ「彼は彼で悩みは深くて、心の傷やゆがみのようなものを持っているみたいなんです。親のことでいろいろあって、あと、兄弟のことでも。」

結城「兄弟っていうのは彼の兄弟?」

リベラ「ええ、彼にお兄さんがいて、そのお兄さんは何とかって大企業に就職しているんだけど…。彼は親からひどいこと言われて。」

結城「お兄さんと比べられて?」

リベラ「ええ、そうですね。」

結城「あなたの彼氏はぜんぜんお仕事はしない?」

リベラ「以前、ちょうどいっしょに住み始めるときには勤めていたんですよ。正社員で。背広着て。でも、リストラされてしまって。本当はリストラじゃなくって、会社にはめられた、って彼は言っていますけれど。トリックに引っ掛けられて、いつのまにか自己都合での退職にさせられて…。でも、ほんとうに本当のところはよくわかんないんです。その話はもう二度としないし。わたしが蒸し返すわけにもいかないし。」

結城「で、彼はなぜかいらだって、ときどきあなたにあたる?」

リベラ「たまに、ですよ。たまに。」

結城「キャンプには彼は?」

リベラ「ああ、来ません来ません。今回は私の勉強会ということで、彼はパチンコにいっているか、マージャンやってるんじゃないでしょうかね。」

結城「あなたは彼のことがきらいなわけでもない?」

リベラ「そうですね…。ああいう彼だけれど、私は彼のことが嫌いではないです。彼はまだ準備ができていないだけなんですよ。」

結城「準備?」

リベラ「いろんなことの準備。世の中に向かう準備。彼は、彼自身の気持ちを抑えたり、なだめたりすることでもう手いっぱい。だから、わたしの気持ちを受け止めるまでにはなっていないんだと思います。わたしを包んではくれない…。」

リベラさんはちょっと涙ぐんでしまった。

結城「あなたのお仕事の、」

リベラ「だからですね、あ、ごめんなさい。話をさえぎってしまって。わたしも最近むなしい時期になっていて、でも彼はあんなだし。わたしは自分の進む道をどうも見失ってしまっているみたいです。」

結城「…」

リベラ「高校のときは《大学にいく!》 大学に入ったら《彼氏を作る!》 卒業近くなったら《とにかく就職だ!》 会社に入ったら《自分の仕事だ! 自己実現だ!》 わたしはずっとそんな調子で、自分を鞭打って、というのは大げさですけれど、生きてきたんですね。」

結城「(うなずく)」

リベラ「はりきってはりきって生きてきたんですけれど、いまはなんだか息切れ時です。厄年なのかな。クリスチャンは厄年とか厄払いってないんですか。」

結城「ええ、ないと思います。厄払いはともかくとして、人生の節目みたいな時期はありそうですよね。人によって違うと思いますけれど。」

リベラ「自分が調子のよいときには、頼りにならない彼氏でも、なんだかそれなりによかったのですが、自分がダウナーなときには、難しいですね。」

結城「難しい?」

リベラ「彼との距離感というか…。」

しばらく沈黙が流れた。窓の外では雲が急に広がり、暗くなったかと思うと、大粒の雨が落ちてきた。急に気温が下がり、風も出てきて、どんより重い空気は一掃された。夏の夕立?

結城「彼との《結婚》は考えたことはないのですか。」

リベラ「なくはないですけれど…。わたしもたくさんやりたいことがあって忙しくて、結婚のことはあまり…。うーん。よくわからないです。好きな人と同棲することは、つきあいの延長として自然なことに思えたんです。わたしには、ですね。結城さんの前でこういうこというのはあれなんですが。同棲は自然な流れだったんです。でも、結婚となると、気持ちとの間にギャップがあって、そこまではジャンプできないというか。裂け目があって、そこは別な世界だからまだ行けないというか。」

結城「こわい、とも違う?」

リベラ「結婚が、ですか?」

結城「そう。結婚が。いま別の世界とおっしゃってましたよね。連続的に結婚するんじゃなくて、ジャンプする。不連続だと。」

リベラ「はい。」

結城「わたしは、それはけっこう正確な表現だと思います。<結婚していない>と<結婚している>の間には不連続な何かがあります。」

リベラ「それは、結婚しているほうが良い、ということでしょうか。」

結城「いえ、良い悪いというよりも、そこには後戻りできない何か、そう簡単にはリセットできない何かがあるような感じがするんです。だから、結婚式では、わざわざ神の前と人の前で誓うのかな、と。あ、ごめんなさい。なんだか抽象的で、あなたの話から離れちゃいましたね。すみません。」

リベラ「いえ、それはいいんですけれど。あまり結婚について、そういう風には考えたことがなかったです。相手との相性とか、経済的なこととか、親との関係とか、そういうのはちょっと考えたことがありますけれど。」

結城「でも、別世界という表現をなさったのはあなたのほうですよね。」

リベラ「ええ、しゃべっているうちにそういう考えを自分が持っていることに気がついたんですけれど。変な話ですが。」

結城「キリスト教では、結婚式はとても重要な意味を持っていますね。結婚式は礼拝でもあるし。」

リベラ「重要な意味?」

結城「結婚式はいわば比喩なんですよ。」

リベラ「比喩?」

結城「ひとつの比喩は、イエス・キリストが夫、教会が新妻という関係です。妻は自分をすべて夫にささげる。夫は妻のために命がけて愛する。」

リベラ「命がけ、ですか。大変ですね。」

結城「もうひとつの比喩は、死です。」

リベラ「死?」

結城「花嫁が白いドレスを着るのは、死に装束でもある。」

リベラ「死んじゃうんですか。」

結城「そう。いったん死んで、新しい自分として復活する。古い自分が死んで、新しい自分が生まれる。」

リベラ「一回死ぬので、不連続?」

結城「そのとおりです! 古い自分を捨てて、新しい自分を得る。古い自分と新しい自分の間にはひとつの断絶がある。それは生死でもそうだし、結婚でもそうだし、洗礼もそうです。モーセが紅海を渡るのもそうかもしれません。古い肉の土地エジプトからの脱出、出エジプトです。」

リベラ「不可逆なのですね。暗号モジュールのメッセージダイジェストのように。」

結城「面白いことをおっしゃいますね。まあそうです。」

リベラ「じゃあ、結婚がこわいっていうのは、いまの自分を殺すのがこわいってことですね。」

結城「そうです! だからそれはまあ当たり前なんですが。この人とならば結婚してもよいというのは ≒ この人のためには死ねる、ということで…。「愛と誠」みたいですが。」

リベラ「愛と誠…? あっ、時間! 大丈夫ですか?」

結城「大丈夫ですよ、別に予定もないですし。でもまあ、この辺で一休みとしましょうか。」

リベラ「なんだかわたしの変な話につき合わせてしまってすみませんでした。」

結城「いえいえ、わたしのほうも勝手に人のことにあれこれ口出ししてしまって…。わたしは、同棲という形よりも、(もしそうできる相手ならば)結婚のことをきちんと考えたほうがよいと思いますよ。ってまた口出してしまいましたが。」

リベラ「いえ、そういうことを言ってくださる方はそもそも少ないので、かえってうれしいです。長い時間すみませんでした。」

結城「いえ。それではまた!」

(2004年7月28日)