信仰を持ちたいと思いつつも不安を抱いているあなたへ

結城浩

1999年10月29日

神様というものを、 人間が便宜上作り出した絶対的存在、 と解釈するあなたのお気持ちはよくわかります。 また現代日本の知識人の多くの意見もあなたのものに近いのではないか、 と思います。

毎日の中で、不安になったり気持ちが揺れ動いたりするということですね。 信仰がないと不安定になるというのは、確かにそうだと思います。 もちろん、クリスチャンになったからといって悩みがなくなるわけではなく、 また不安な気持ちがよぎらないわけではないです。 しかし、私の経験からは、 「揺れ」の性質は神を知る前と知った後でまったく異なるようです。 神様を知る前は「何かはわからないのだが不安」という感じなのですが、 知った後は「神様から離れることによる不安」という感じです。 そして後者の不安は、自分の歩みを軌道修正するために必要な不安だと私は思っています。

信仰を持ってみたいという願いと、神様が信じられるかどうか不安だ、 という気持ちが交錯しているし、 また、頭では「どうせ宗教なんて」と思っている…とのことですね。 学問や知識は、さまざまなものを相対化し、情報化します。 それはそれで大事なことですが、 うっかりすると、自分が生きている存在だ、 ということをどこかに置き去りにしてしまう危険もありますね。 知識を得ても、自分の悩みは変わらない。 理論的に納得しても、自分の不安は変わらない。 自分自身が何かと(誰かと)「かかわる」ことがないと、 まるで自分も単なるデータになってしまう感じがするかもしれません。

聖書の言葉を読み、涙を流されたあなたには、 神様が働いておられるのだと思います。 心の飢え、心の渇きを覚えている人には、 聖書の言葉は、糧であり、いのちの水になると思います。 栄養学の知識がなくても、水のデータを持たなくても、 ほかならぬ自分が糧を食べることで自分の飢えが満たされ、 ほかならぬ自分が水を飲むことで渇きが癒されるのです。

信じられるかどうか不安、というのもわかります。 また宗教に対する自分の理解は変化しないのでは、 という気持ちもわかります。 しかし、もしあなたが、神様のことを信じてみたいと思われたのなら、 その願いはとても大事なものだと思います。

私の場合には、イエスキリストを受け入れ、 神様を信じた後の方が、何百倍も充実した人生を送っています。 何というか…「人生の意味」が少しわかったというのか…。 少なくとも、知識はそれ自体では空しいものだ、ということと、 自分は一人ではやっていけない存在なのだ、ということはよくわかりました。 そして神様がほんとうにおられ、イエスさまがいつもともにおられ、 私をまるごと愛してくださっているということも。

信仰を持つことは結婚と似ています。 結婚については、いろんな人がいろんなことを言います。 よい、という人もいれば、悪い、という人もいる。 結婚に関する本もたくさん出ているし、雑誌も特集を組む。 しかし、結局のところ、自分が結婚しなければ、 「自分にとっての」結婚はわからない。 結婚は関係だからです。 信仰も同じです。 ボタンを押すと何かが変わる、というのではなく、 生きておられる神との対話と関わりを通して、 神様からの愛を受け、 そして自分のあり方をはっきりと知り、 自分の生き方が実感とともに変化していく。

生きた信仰はそのようなものです。 理解してから信仰を得るのではありません(もちろん理解することは大事ですが)。

だから、おそれないでください。 自分ですべてを制御しようとはしないでください。 すべてを予見した上で始まるのではないのです。 自分の場合に何が起こるかは、完全にはわからない。 でも、進んでみよう、と思う。やってみよう、と思う。 結婚も、信仰も、いえ人生のすべてのことは実はそういう局面を持っているのです。

あなたの聖書の学びと、信仰の歩みが主なる神様によって守られますように。