別世界への旅行はファンタジーの本質

結城浩

2000年6月23日

午前中、久しぶりにまとまって書籍の原稿書き。すごくよい。 でも、まだまだまだまだやるべきことは山積みである。 しかし、今日書いた分はとてもよい。

最近あまり調子がよくないが、集中して書籍の原稿を書いた後はとても調子がいい。 私はこれは「別世界」のゆえではないか、と思っている。 集中して原稿を書いているときは、現実の世界と自分の意識は切り離され、 私は別世界へ旅立っている。 現実世界でまわりにあるものも認識の外に出、 現実の時間とは違う時間の中を歩いている。 そうしてひとまとまりの仕事をした後で私は現実世界に帰ってくる。 そうすると、なぜか心が深いレベルでリフレッシュしているのである。 感謝なことである。

別世界への旅行はファンタジーの本質である。 別世界へ行き、帰って来る。 それがファンタジーの本質だ。 例えば夜眠る。夜眠って夢を見る。これもファンタジーの一つかもしれない。 映画、読書、テレビ(はどうだろう)もファンタジーの一つだ。 一般に、趣味の世界もそうかもしれない。

ルーシーたちはナルニアへ行き、またイギリスへ帰ってくる。 しかし『最後の戦い』では、最後はもう帰ってこない。 ナルニアの終わりを迎え、そして本当のナルニアへ旅立つのだ。 それから先に待っているものは、それまでのことがすべて、 はじまりのはじまりに過ぎなかったと感じられるようなものなのだろう。

この世も同じではないか。 現在生きているこの世界は影の国(shadow lands)に過ぎない。 私たちが感じているリアリティというのは、 もっと高次元のリアリティの影に過ぎないのではないか。 私たちは毎日の苦労や思い煩いの中に生きている。 しかし、これがすべてではないのではないか。

私は、この世は「愛の練習場」だと思っている。 私たちに内在している自分勝手な傾向、自己中心的な思いが、 さまざまな障害や困難によって打ち砕かれる場。 自分が握り締めているプライドを手放し、 各人が置かれている状況の中で、 ささやかながら「愛」を示していく場。 そしてその愛の源である神さまを知り、 その愛を体現してくださったイエスさま (自分のためにではなく、人のために命を捨てるほどの深い愛があるでしょうか) を知る場。

私たちが生きているこの世は確かにリアルなものであり、現実である。 しかし、私たちの命が尽きるとき、それですべてが終わり、 それですべてが無に帰するのだろうか。 私はそうではない、と思う。

この世に生きている間、死ぬまでの人生を好き勝手に楽しもうとするのも一つの選択。 あるいは、自分の感情や自分の悟りに頼って生きていこうするのも一つの選択。 神を信じ、イエスさまの救いを信じ、聖書に従って生きようとするのも一つの選択。 その他、どのような方向に自分が生きていくのか、私たちは毎日毎日、選択を迫られている。

この世の終わり、いやいや、自分の人生の終わりを迎えるとき、 この世での自分の命が尽きるとき、私たちは(いや、私は)神の前で何と弁明するだろう。 神さまの前で、たった一人で、裸で、何も持たず、 自分の人生(それはすなわち私たちの「毎日」のことだ)について、 神さまになんと説明するだろうか。

自分が稼いだお金について語るか、 なした仕事について語るか、 勉強したことについて知識を披露するか、 何らかの世話をした人の数について語るか、 自分がしたよいことを語るか、 教会でなした奉仕について語るか。

いや、それじゃ駄目だ。ぜんぜん駄目じゃん。 やはり、イエスさまにすがるしかないのだ。

私は罪人です。 イエスさま、おゆるしください。