わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です

結城浩

2001年10月22日

今日聖書を読んでいたら、 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5より) という個所が目にとまりました。 イエスさまがぶどうの木で、わたしたちが枝。 そしてイエスさまにとどまる(イエスさまへの信仰を持ち、 そこから離れない。聖書のことばに従い、そこから離れない)。 私たちがイエスさまにとどまり、イエスさまが私たちの中にとどまるなら、 「多くの実」(ヨハネ15:5より)を結ぶのだそうです。 これは聖書の言葉だから真実です。 「多くの実」を結ぶ、っていいなあ。

人生で豊かな実を結ぶことができたら、それはすばらしいことですね。 愛の実を結ぶ。喜びの実を結ぶ。信仰の実を結ぶ。 イエスさまがぶどうの木で、わたしたちはその枝。 確かに、枝が実を結ぶためには、ぶどうの木につながっていなければならない。 ぶどうの木から離れてしまっていては、実を結ぶどころか、枯れてしまうではないか。

イエスさまは、ぶどうの木。 わたしたちは、ぶどうの枝。 そうか、それなら、たとえ多くの実を結んだとしても、いばることはできない。 自分がやった、なんて偉そうなことは言えませんね。 だって、枝に力があるわけではないもの。枝は木につながっていたから実を結ぶことができたにすぎない。 枝が、自分だけで実を結べるわけではない。

イエスさまは、ぶどうの木で、わたしたちは、ぶどうの枝です。 あっ、それなら、他の人が多くの実を結んだとしても、ねたむにはおよばない。 その人も、枝にすぎないのだから。 すべての栄光は神さまにお返ししよう。 他の人が実を結んでも、 それをあたかも自分のことのように喜べるではないか。 そして自分が何らかの実を結んだとしても、 それを(自慢するでもなく、卑下するでもなく)喜べるではないか。

わたしたちは、イエスさまの枝です。 いつもイエスさまにとどまり、聖書のみことばにとどまりましょう。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、 そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、 あなたがたは何もすることができないからです。 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、 枝のように投げ捨てられて、枯れます。 人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。 (ヨハネ15:5、15:6)