ほろ酔い気分で書く文章

結城浩

2004年5月18日

今日はとても疲れたので、村上春樹を読みながらビールを少し飲んで、ほろ酔い気分になりました。 で、いまThinkPadを開いているわけですが、こういう気分のときにしか書けない文章というものもあって、 それをいまから書こうというわけです。

といっても、何か特別なことが始まるわけではなく、 私の手が動くまま、指が導くままに文章はつむがれていくわけですけれども。

さて、ごたくはさておき。 私はいつも、読者のみなさんのことを「読者のみなさん」と表現します。 日記であれ、私の本であれ、連載記事であれ、読者のみなさん、と表現しています。 私は読者のみなさんにとても感謝しています。 これはおべっかや、機械的ないいまわしというわけではなく、本気で感謝しているのです。

自分のWebサイトを運営している方ならよくわかると思いますが、 普通のWebサイトでは(よっぽどアクセス数の多いサイトは除いて)、 「読者からの反応」というのはほとんどないものなのです。 ましてや、好意に満ちた、あるいは建設的な反応というのはとても少ない。 少ない、はずなのですが、 私の「読者」のみなさんは、ほんとうにまめに結城あてに反応を書いてくださっている。 これにはとても助けられています。 あらためて感謝します。

結城のWebサイトの誤字脱字、リンク切れ、 事実誤認に、ブラウザ依存の不具合…ともかくいろんな種類のコメントやフィードバックを いただいています。ありがとうございます。 ときどき、結城のサイトのことを「とても細やかな心遣いに満ちた読みやすい場所」と 評してくださる方がいるのですが、それも道理で、なにしろ多くの方のフィードバックの上に 成り立っているサイトなのですから。 みなさんの一つ一つのメッセージに感謝します。

結城はネットを通じてみなさんとやりとりをすることをとても楽しみにしているのですが、 私自身の時間は限られているわけで、メールのお返事が滞ったり、掲示板でのフォローが 足りなかったりすることも多々あります。それは本当に申し訳なく思っております。 でも、これはご理解いただきたいのですが、結城がすべてのメールにまじめに返事を書いていたら、 一日がすべてそれで埋まってしまうのです。ごめんなさい。

あるとき、ある場所でのフォローが遅れたことで、ある読者が不愉快に感じられたことがあります。 また別のとき、別の場所でも、結城の対応のまずさによって不愉快な思いを味わった方がいらっしゃいます。 結城が知りえた範囲でも、そういった事項は何件かあるので、実は結城がしらない範囲でも、 たくさんの人に不愉快な思いをさせたり、傷つけたりすることもあるかと思います。 それについては、申し訳ないと思っております。ごめんなさい。

あ、多くの方によって「祈られている」ことは特に感謝すべきことです。 多くの方が、このサイトのために、また結城のさまざまな活動に関して、 心を込めて、貴重な時間を使って、祈ってくださっている。 そのことを心から感謝します。ありがとうございます。

何よりもうれしいことは、結城のサイトを訪れたことをきっかけとして、 聖書を読み、教会に通い、イエス・キリストさまを信じた方が何人かいらっしゃるということです。 これは本当にうれしい! たった一人でも、そういう方がいらっしゃったなら、 私がこのサイトを立ち上げた意味があると思っています。 だって「いのち」を得るわけですものね。本当の、永遠に続く、本物の「いのち」を。

人間を単なる集合体だと思うと、つい、統計や割合や効率などを考えてしまうんですけれど、 人間はそういう集合体ではなく、一人一人がスペシャルな意味を持ち、 交換不可能な——つまり、かけがえのない——存在だと思います。 ですから、誰か、ある「一人」が命を得ること、救われること、悔い改めにいたること、 には無限に深い意義があるのです。

たった一人。たとえば日本人約一億人のうちのたった一人は、割合にしたらたいしたことはない。 でも、その当人にとってみれば、自分がいのちを得るか、むなしく滅びるかの違いは大きい。

これは、想像力の問題です。

「誰か他の人々のこと」だと思うと、統計や割合や効率が出てくる。 でも、「うっ、これはホカナラヌワタシのことだ」と思うと、統計はふっとんでしまい、 ものすごく切実で・生々しくて・重い事実が目の前に現れるのだ。

「信仰の告白」っていうのはそういう意味合いを持っている。 告白。 恋愛や結婚ととてもよく似ている。

ふつうのことなら、周りの様子を見て、友達や同僚の反応をみながら対処すれば まあ問題はない。

でも、恋愛や、結婚や、信仰の問題はそうはいかない。 恋愛や、結婚や、信仰は、他の人の様子をみて決まるものではない。 まわりのみんながOKといったから、自分がOKできるわけではない。 両親・友達・親戚がダメといったから、自分もやめるとはいかない。

最後の、最後は、 「そのことについて、あなたはどう言いますか。他の人はどうでもよい。あなたは、なんと言いますか」 という厳しい問いに答えなければならない。 あなたが。たったひとりで。

もちろん他の人のアドバイスはあるだろう。 本を読んだり、ネットで情報収集はするだろう。 でも、最後の告白はいつも一人でやらなければならない。

「あなたは、何と言いますか?」 という問いに答えるのは、誰でもない、あなた自身だ。

「わたしは、あなたが好きです。あなたと結婚したいです!」という告白。

「神さま。わたしは、イエスさまを救い主として信じます。このわたしを、どうか助けてください!」という告白。

とても似ている。

あなたは選べる。

少なくとも、今は。