嫁と姑のもめごと

結城浩

1999年ごろに書いていた文章です。

目次

嫁と姑のもめごと

嫁と姑の間のもめごとについて思うことを少し。

具体的なもめごとへの対処方法はいろいろあるのですが、 それよりも何よりも「夫婦間の対話」が大事ではないか、と思っています。

こんなことを夫に言ってはいけないのではないか、 として自分の心の中におさめておくことが多くなってくると、 行き違いやトラブルのもとになるように思います。

嫁姑の問題に限らず、家族全体の問題に対しては、 ご夫婦はできるだけ一つになってあたった方がいい、と思います。

もちろん夫婦の対話といっても、 夫婦の関係の深さ、信頼の度合い、夫婦生活の年月、 二人の性格によるので、具体的にどのようにすればいいかは何とも言えませんが。

問題を夫婦間で明るみに出し、 姑さん(あるいはその他の問題)で一時はモメたとしても、 結局はそのことで夫婦間の絆が深まるのなら、対話の価値があると結城は思います。 原則として、夫婦間で隠しごとはしない方がトラブルは少ないです。

(テレビドラマを見てもわかります。 トラブルが起こらないと話が面白くならないので、 絶対といってもいいほど夫婦間で隠し事があります。 「こんなこと、主人には言えない」 「こんなこと、妻には言えない」 そしてその隠し事を第三者から聞かせられるとき、トラブルが始まるのです)

普通にヨメシュートメの話を聞いていると、 ヨメが悪い、いやシュートメが悪い、という「犯人探し」になりがちなのですが、 それはあまり建設的な方向に進んではいかないように思います。 犯人を探すのではなく、その問題をどのような姿勢で抱えるのか、 という態度に気持ちを向けた方がよいように思うのです。

奥さんの方は 「これこれこういうことを言われた」とか、 「こういう不満を持っている」 といった話を率直にご主人と相談する。 その相談を受けて、ご主人がどうするかは場合によるでしょう。 でもいずれにしても、 そうやってコトにあたることによって夫婦間の絆が深まっていくように思うのですが…。

人生、いろいろ問題が起こるもの。それは避けられない。 その問題を夫婦二人でいっしょに抱えていこうとする。 結城はそれがいいと思っています。 そのために結婚するんじゃないだろうか。 聖書にある、「二人が一体となる」というのは、 そういうことじゃないでしょうか。

ヨメとシュートメがもめるのは当然のように思います。 せっかく手塩にかけて育てた息子を、 自分よりも若い女性に奪われるのですから。

ヨメとシュートメがもめていたら、 ご主人は無条件で100%奥さんの側に立つべきだと思います。 けれど、母への思いやりも忘れない。 それを基本姿勢にするのがよいのではないか、と思っています。


信仰告白

私、結城浩はイエス・キリストを信じているクリスチャンです。

イエス・キリストが自分の個人的な救い主であることを 信じています。

この世が偶然にできたものではなく、 全能の神さまがお造りになったものであると信じています。 また神さまのたった一人の息子であるイエスキリストが 私のために十字架の上で死んでくださったことを知っています。 またその後、イエス・キリストが三日後によみがえったことも知っています。

復活のイエス・キリストを信じることで、 永遠のいのちにあずかることができることを知っています。

私が、とてもとても弱い存在であることを知っています。 そのくせ、すぐに傲慢(ごうまん)な思いをいだくこと、 自分勝手に行動して苦しみを招く存在であることを知っています。

けれども、そんな私のためにこそ、 キリストが十字架にかかってくださって、 尊い命を捨ててくださったことを知っています。 キリストは死んで三日の後によみがえったことを知っています。 そしてそのおかげで私が「永遠のいのち」を得ることができたことを 知っています。

私は立派な人間ではなく、 日々つまづいている人間であることを知っています。 けれども、そんな私をイエス・キリストが愛してくださっていることを 私は知っています。

私はイエス・キリストから日々深く愛されており、 愛を受けることによって生きているのです。


教会について

普通、特に教会にいったことのない人は、 「教会には清廉潔白な人ばかりが集まっている」 と思うことが多いかもしれません。

しかし、本当のところは、 清い思いを持っている人たちばかりが教会に来る、 のではないのかもしれません。 ほんとうにほんとうに清い思いを持っているのなら、 教会にくる必要もないからです(そんな人はこの世にはいないでしょうけれど)。 むしろ、教会には、 自分が清くないことを知っている人が集まると言えるかもしれません。

教会にいる人もいろいろです。 長い信仰生活で鍛えられている人もいれば、 とても不安定な精神状態で、 人のことなど構ってられない人もいる。 あれこれと世話を焼きたがる人もいれば、 いろいろ聞いても答えてくれない人もいる。

トラブルは、教会にいる「人間」に期待しすぎるところから発生します。 人間に期待せず、神さまに期待した方がいいことが多いです。 人間は期待する対象ではなく、愛する対象と考えた方がよいことが多いです (すなわち、ゆるす対象、ということですが)。

私たちは神さまから「愛」をいただき、 それを隣人に渡す仕事をしているわけです。 たっぷり愛されれば、たっぷり愛することができる。 教会は「愛する」ことの練習場なのかも。


唯物論的世界観について

私は、「人間は神によって創造されたものである」と信じています。 人間は神によって創造され、自由意志を与えられ、 神の何らかの意図・計画に沿ってこの地上に存在を与えられているのだ、 と信じています。 私が信じていることを論理的に証明することはできません。 数学の証明のように論証することはできません。 でも、証明できないから脆弱なものであるとは考えていません。 第一、私の知識のうちほとんどすべては論証することはできないものですから。

例えば、私の実家の父親が、 ほんとうに私の生物学的な父親であるかどうかを論証せよ、 といわれても、私にはできません。 あるいは、例えば、イギリスという国がほんとうに存在することを論証せよ、 といわれても、私にはできません。 けれども、私が信頼できると考えられる情報筋 (例えば親戚、例えば地図帳)により、 私は自分の父親がほんとうに私の父親であることを信じ、 またイギリスという国がほんとうに存在することを信じているのです。

私が信仰を得る前は、 「どうして『神』などという特別なご都合主義的な存在を導入しなければ ならないのか。百歩ゆずって人間を越えた存在を仮定したとしても、 どうしてそれがキリスト教のいう神でなければならないのか」 という疑問を持っていました。 信仰を得てからは、その考えは少し変わりました。 それは次に説明します。


私自身とは何でしょうか

以前、私は、人間を機械のようなもの、 また自然法則に従って動くもののように思っておりました。 しかし、自分自身をよく観察すると、違うんじゃないか、とも思いました。 つまり、こういうことです。 確かに、自分以外の他の人については、やる気になれば、 「これは単なる幻想だ」 「単に物質が物理法則にしたがって運動しているだけだ」 などの結論づけをできると思います。 (もっとも、それが、論証できる種類の議論でないことは、 信仰的な世界観と変わりませんが) しかし、決定的なのは、「自分」というものの存在です。 単なる物理法則にのっとって物質が動いているだけならば、 どうして自分自身は他の人と違うのか、ということの説明がつきません。 どう考えても、「主観的自分」「私が私であること」「自分自身の特異性」 は均質な物質的な世界観(唯物論、と言ってもよいかと思います) では説明できないように思います。

先ほど、「どうして『神』特にキリスト教的な『神』などという 特異なものを導入しなければならないのか」という疑問を抱いたという 話をしました。しかし、神以前に、「自分自身」という特異なものの 存在が大前提になっていることに私は気が付いたのです。 そういう観点で自分の回りを見ると、何と特異なものの多いことか。 なぜ、この人が自分の父親なのか、母親なのか。 なぜ、私はこの地域に生まれたのか、この時代に生まれたのか。 などなど。それらは論証不可能なのでした。 けれどもはっきりと事実としてここにある。

キリスト教のいう神を信じるに至るまではまだ離れているのですが、 すくなくとも唯物論的世界観は、私にとってはあまりにも貧弱で、 幼稚で、脆弱すぎるように思われたのでした。 はっきり言えば、シンプルすぎるのです。


個人の自由意志

「万能の神がいるなら、 その神が作った世界はすべて決まっているのであろう。 それなら、なぜこの世界にこんなに邪悪なものがあるのか、 また、個人には自由意志はないのか」

こういう問いを心に抱いている人は少なくないと思います。 キリスト教のオーソドックスな考えとは違うかもしれませんが、 私は次のように考えています。

神は人間を自由意志を持った存在として創造した。 神は人間が自由意志によって、 神を愛し、他の人を愛することを望んでいる。 つまり、ロボットのように自動的に愛するのではなく、 ということです。 自動的に愛する愛は、愛とは言い難いですね。

その自由意志はしたがって非常に危ういものである。 よいことも、悪いことも選べるわけですから。 そして、残念なことに、 人間は神の目に悪いことをやっているのです (私自身もそうですが)。 神が作った世界、神が作った人間でありながら、 いろいろ邪悪なことが存在するのは、 人間がその自由意志によってそういう道を選んできたからです。

で、そこから先は個人の問題になるのですが、 毎日毎日、日々刻々と私たちは「選択」の前に立たせられています。 何かを選び取っているのです。 それは自由意志を持っているからです。 神に近づくことも、遠ざかることもできます。

私は、でも、その自由意志を自由に行使することは非常にこわいです。 なぜなら、自分は誤りをおかすことが多いからです。 しかし、ありがたいことに、 神さまに祈ることによって、 神さまに介入していただくのを「願う」ことができます。 (私はそう信じています。 これもまた、論証不可能なことです。) 自分が誤らずに選択できるように、 神に祈ることができるのです。


祈りは本質的な解決でしょうか

「祈りは本質的な解決なのだろうか?」

という問いを抱く人も多いです。

ところで、本質的な解決というのは何でしょうか。 何をもって解決とするのかは、難しいと思います。 人間の知性には限界がありますから、 「ここでこういう結果になってほしい、それがベストだ」 と思ったとしても、それが本当に本当に正しいと言い切ることは 難しいと思っています。

私には小さな子供がおりますが、 親がよかれと思ってやることも、子供はよくいやがります。 いまご飯を食べておかないと、あとで調子が悪くなるから、 「いったん遊びを中断して、食事しなさい」 と言っても、なかなか言うことを聞きません。 子供にとっては、その時点では、 うるさいことを言われず、 心ゆくまであそばせてもらうことが「いいこと」なのかもしれません。 でも親の目から見たら、それは結果的には本人にとって もっともいいことではないのです。

それと同じことが人間にも言えると思います。 「祈り」は神との対話です。 祈りを通して、神に懇願したり、文句を言ったり、 疑問を呈したりすることができます。 返事が与えられる場合もありますし、 ない場合もあります。 返事が与えられる場合でも、 直接心に言葉が与えられることもありますし、 家族や知人を通して、あるいは出来事を通して 返事が与えられることもあります。

私はどんなことも単純によい/わるいの判断はできないと思っています。 一見わるそうなことも、神に近づくことなら、よい場合もあるし、 一見よさそうなことも、神から遠ざかることなら、わるい場合もあります。 私は、どんな問題も、 神の前に祈りとして出したなら、 神さまはほんとうによいものへと導いてくれると信じています。


願ったものは得られます

唯物論は論理的に間違っている、 ということは私にはできません。 しかし、 私が信仰を持つ前に抱いていた世界観に非常に近いと思っており、 現在の私の世界観とはかなり異なっています。

私の昔の世界観(それはシンプルな唯物論的世界観でした)を ずっと持ち続けていると、非常な虚無に襲われます。 この世はむなしく、厭世的な気分になります。 何しろ、すべての現象にまったく意味も意義もなく、 意志もなく、美も愛も、ということは真理もないからです。 「偶然存在した自分」と考えたら、 どんどんむなしくなったものでした。

人間はあることを強く強くずっと願っていると、 それを手に入れる可能性が大きくなるように思います。 唯物論的世界観にひたっていた時の私は、 まさに、むなしい世界を手にしようとしていたのです。 私のいのちの尽きるまで、 その小さな世界観をにぎりしめていたら、 きっと本当の虚無にいたったことでしょう。

人間は、この世でか、あの世でか、 きっと望むものを手に入れるでしょう。