暗い森に迷い込んだような人生の困難に立ち向かう鍵

結城浩

2003年11月30日

今日は教会で礼拝のあと、 家族でお昼を食べてゆっくり過ごしました。 そういえば今日はお昼寝をしなかったです。

教会に行く前って、ちょっとしたトラブルが起きて (たとえば雨が吹き込んでいて車のチャイルドシートが濡れている、とか) 手間取ることが多いんですよね。 でもあまり気にせず、とにかく教会に行くのさっ。

今日の礼拝の時間にいろいろ思った。以下、断片的ながらメモ。 他人のことを悪く思わないこと。 悪い言葉、うらみごと、ぐち、否定的な言葉を口にしないこと。 そういう言葉は自分自身をむしばんでいく。 長い時間をかけて、自分自身をむしばんでいく。 だから、悪い言葉を口にしないようにしよう。 それから、自分の思い通りにいかないときなど、落ち込んだりくよくよしたりするのをやめよう。 イエスさまが私になしてくださった——いや、なしてくださっている日々の恵みに心を留めよう。 自分の思いで自分をしばるのではなく、いつもイエスさまの示すとおりにスッと心や体を動かせるようにしておこう。 この世に調子をあわせるのをやめよう。 落ち着いて一日一日を神さまに捧げる態度で進もう。 自分に命が与えられていることをもう一度覚え、感謝しよう。 自分はキリストにあって洗礼を受けて(象徴的に言えば)一度死んだわけだ。 残りの人生はすべて恵みだ。恵み、恵み。 祈りと感謝で自分の人生を満たしていこう。 何が起こっても、神さまのゆえに感謝する人生というのはとてもよいものだと思う。 何が起こっても感謝するというのは、はたから見たら馬鹿みたいかもしれないけれど、 実はとても幸福な人生ではなかろうか。

結城のところには、みなさんからたくさんのメールが届きます。 悩みごとの相談メールをいただくこともよくあります。 みなさんからのメールにはすべて目を通していますが、 あまり返事はできません。ごめんなさい。 メールを読んでいると、人間関係で悩んでいる人がとてもとても多いと思います。 学校で、職場で、家庭で…いじめにあったり、無視されたり、ひどい言葉を言われたり。 好きな人から敬遠され、嫌いな人につきまとわれ…。 ほんとうにいろんな悩みがあるものだと思わされます。 心痛むメールをいただいたときには、目を閉じてしばし祈っております。

私自身もそれなりに悩むことや苦しむことはあるのですが、 いま私は「本当の解決はイエス・キリストにある」、 とはっきり言うことができます。 何か問題が起きる。自分の目にはとんでもない事態に見える。 解決の道が見えず、まるで暗い森に迷い込んだように感じる。 胸がどきどきして、手が冷たい汗でねばねばして、体がこわばる…。 そういうときは苦しいものです。 でも、自分がどんな問題に直面したとしても、 それを神さまの御前に持ち出すとき、神さまの御力を信頼し、 聖書の御言葉にしたがって生きようと心に決めるとき、 必ず道は開けていく、と私は信じています。 私は、聖書の神さまを信じています。神さまがこの天地をすべてお造りになり、 私に命を吹き込んで、いま・ここに生かしてくださったことを信じています。 神さまは、誰とも比較できないユニークな存在として、この小さき自分を愛してくださっていることを信じています。 神さまが、私の想像をはるかに越えた方法で、 私の人生を冒険と感動に満ちたものになさってくださることを信じています。 神さま、いつもありがとうございます。感謝します。

問題に直面するとき、私たちはついその問題だけの解決を求めてしまいます。 でも、きっと神さまはもっと大きなレベルでその問題(に見えるもの)を用いてくださるのだと思います。 人生は複雑に入り組んだジグソーパズルのようなものです。 ピースの1個だけを眺めて「これ、変な形だからやだ」というのはおかしなこと。 その変な形のピースも、全体の中に置かれるとき重要な一片となるかもしれません。 全体像をご存知の神さまを信頼し、歩んでいきたいものです。 神さま、あなたは何と素晴らしい方でしょう。

私は幸福になりたいと思っている。 私が願う幸福というのは「本当の本当の幸福」です。 何が起こっても奪われない、どんなことが起きてもなくなることのない幸福。 私は贅沢なので、そのような幸福を願っています。 そして、そのような幸福は人間の手で作り出すことはできないとも思っています。 しかし、まあ、そのような思いも私の勝手なイメージかもしれない。 神さまが私に与えてくださる人生こそが、私の幸福な人生に違いありません。 主に感謝します。

イエスさまは十字架にかかり、死にました。 それは、私たちひとりひとりの罪——神さまをないがしろにし、まわりの人をないがしろにし、自己中心に生きてきたこと——をゆるすためです。 本来、私たちが神さまに罰せられる必要があったのに、イエスさまは十字架の上で、私たちの身代わりになってくださったのです。 ですから、私たちが自分の罪を悔い改め、イエスさまの十字架を信じるとき、 私たちは神さまの前に立ったときに「無罪」という判決を受けることができます。 イエスさまの十字架のゆえに、私たちの罪はゆるされたのです。 しかし、それだけではありません。 イエスさまは死んだ後によみがえられました。 私たちもイエスさまを信じるとき、そのよみがえりにあずかることができます。 この世での旅を終えた後、神さまがいらっしゃる御国へ行くことができます。 それは何と大きな希望でしょうか。 そしてその希望をいだきつつ、この世での旅路を進むとき、 実は御国への道は、この地上ですでにはじまっていることに気がつくのです。

もしも、自分のいのちが死によって「終わり」になる、 「無」になると考えてこの世を生きるとするなら、 それはとてもむなしい人生でしょう。 何をなそうとも、何を見出そうとも、 自分にとってそれは無になってしまうからです。 しかし、イエス・キリストの救いにあずかって、 御国での永遠の命の約束をしっかりとつかんで生きるとき、 また聖書の御言葉に従って愛に生きようと願うとき、 そのような人の人生はむなしくなりません (ときおり方向を見失ったとき、むなしさに襲われることもありますが、それも長くは続きません)。

何回も何回も同じ失敗をしてしまうこともあるでしょう。 聖書に従って生きようと思っていても、誘惑に負けたりすることもあるでしょう。 でも、あきらめてはいけません。 何度でも丹念に悔い改めをして、神さまに祈り、 聖書の御言葉で自分の人生の軌道修正をしましょう。 よい人間だから救われるのではない。賢い人間だから救われるのではない。 自分のおろかさ、自分の失敗を正直に認め、イエスさまの十字架の救いを信じること。 自分の人生を、自分で万事コントロールしようと思わないこと。 現在の自分、ありのままの自分を神さまの前に持ち出し、 心を大きく開き、イエス様を心の王座にお迎えいたしましょう。

そして、大きな声で私たちの神をほめたたえ、毎日を賛美で満たしましょう!

ハレルヤ!