本を書くという仕事

結城浩

2000年12月10日

『Perl言語プログラミングレッスン』入門編の2校をとりあえず読み通す。 初校に比べて「ざらざら」が圧倒的に少ないのでとても読みやすい。 でも、間違いはまだゼロではない。 文章も、何度も何度も読み返す。 思うに、何度も何度も読み返して丹念に修正することがいい文章を書くコツではないだろうか。 あたりまえすぎて、コツでも何でもないんだけれど。 文章を書く。読み返す。修正する。もう一度読む。修正する。もう一度読む。修正する。… この繰り返しがよい文章、読みやすい文章を作っていく。 とても地味な作業だ。 そして個々の修正はおそらく、 やらなかったとしても読者のほとんどが気がつかないような修正だ。 でも、そういう修正がたくさんたくさん集まって文章全体の質を決定する。 そして「なぜか、は分からないけれど読みやすい文章」と 「どこがどう、とは言えないけれど読みにくい文章」との違いとなるのだ。

先日、『Perl言語プログラミングレッスン』入門編の表紙のラフスケッチもFAXで届いた。 とても素敵な表紙である。 『Perlで作るCGI入門』や『Java言語プログラミングレッスン』と同じく「風景シリーズ」だ。

これは、あくまで仮定の話なんだけれど、 本を書く時間をすべてプログラムの仕事(例えば受託の仕事)にした方が、 金銭的には儲かると思う。 でも、私は本を書く仕事(ああ、いつのまにか仕事になっている…)がとても好きだ。 自分が理解したことを文章を使って表現し、 それを読んだ読者と「なるほど!」を共有する。 自分が学ぶ過程で感じた「わくわく」を読者に伝える。 プログラミングを通して、考える喜び、作り出す喜び、学ぶ喜びを、読者といっしょに楽しむ。 …「本を書く」という仕事の中にはそういうものがたくさん詰まっているのだ。

私は言葉が好きだ。 プログラミングが好きなのも、文章書きが好きなのも、言葉につながっているからだ。 プログラミング言語の本、 というのは言葉を使って言葉を説明するようなものだから、 楽しみは倍加している。

一番最初の本を出すのはとても大変だった。 何が大変だったかって、自分の「気負い」のようなものの取り扱いが一番大変。 何だか、こう、パーフェクトな一冊を出さなければいけないような気負いが重たくて。 でも、何とかそれも出すことができた(1993年)。 それから数冊プログラミングの本を出してきて、 すべての本が増刷されてきている。 そこから、私の中には「本を書く」という仕事に対する喜びや自信が生まれてきている。 「大丈夫。いま書いている本も完成することができるし、いい本になる」という自信だ。 感謝なことだ。 しかし、そこで安易に「自分を信じる」「自分の感覚を信じる」とは考えないようにしている。 それは私がクリスチャンだからだ。 自分の感覚や自分の力を信じるのではない。 自分は土の器に過ぎない。自分は作られたもの、被造物に過ぎない。 自分は限られたもの。愚かなもの。間違いをおかすもの。 いつも、私を導いてくださる神様に心を向けなければならない。 土の器に過ぎない自分を満たし、 用いてくださる神様に目を向けなければならない。

感謝なことに、いまは本がよく売れている(読者のみなさま、感謝します)。 しかし、だからといって自分を誇ったり、傲慢な思いにならないようにしなければ。 いつも主に栄光をお返ししよう。 私が書いたつたない本が売れているとしたら、 それは神さまの恵みと哀れみによるからだ。 自己中心や自分勝手な思いで仕事をしてはいけない。 たとえ本が売れないときが来ても、焦る必要は何もない。 神さまが万事益にしてくださり、 神さまは神さまのご計画のうちに、 この小さき者の必要を満たしてくださるからだ。