神と、人と、自由意志 / 悔い改め

結城浩

1997年10月23日

結城の理解では、キリスト教では(ものすごく思い切ってはしょると)、

  • 人間は神に比して無力だが、少しできることがある。
  • 人間によってなされる多くの事は、神がお許しになった範囲で人間が自由意志を行使して行われたものである。
  • 神は人間が犯したあやまちを、もしも人間が悔い改めるなら(イエスの十字架のゆえに)すべてお赦しになる。

というのがより正確かと思います。

人間は愛を行う自由も、罪をおかす自由も与えられています。 「自由意志」によって私たちは日々選択しているのです。

ところで、 「悔い改めるならすべてお赦しになる」という文を読むと、 「もしも人間が悔い改めなければ赦さないのか?」と問いたくなります。 神さまはそんなに狭量なのか? という風に。

でもよく考えると、悔い改めない状態というのは 神に背いていること、神へ反逆している状態なわけです。 赦されている状態というのは神によしとされている状態であり、 神のうちにある状態なわけです。 神に背いた状態で神のうちにある状態でいたい、 というのは無理な注文のように感じます。それは自己矛盾をおこす状態ですから。

悔い改めずに赦されたいというのは、 後ろに歩きながら前に歩きたいというのと同じではないでしょうか。

でも、恐ろしいことに、 真の悔い改めをするためには最大限の謙遜が必要で、 最大限の謙遜などというものは罪人には不可能だ。 だからこそ、イエスさまの十字架が備えられているのである。