心が命じる正しいことに体が従わない

結城浩

1997年7月22日

それは、ちょうど、
混んでいる電車の中で、
座っている自分の前にお年寄りが立ったときに感じる。
さっと立って譲ればいいのに、それができない。つい目を閉じる。

あるいは、また、
いつも嫌っている「あいつ」に助けてもらったときに感じる。
一言「ありがとう」と言うべきなのに絶対言えない。言うもんか。

客観的に見れば、さっと立つだけ/一言言うだけなのだが、
主観的には、まるでがんじがらめに縛られているかのように感じる。

心はどうすればよいか知っている。
けれども体はそれに従ってくれない。
精神と肉体の悲しい乖離(かいり)がそこにある。

私はクリスチャンだから、
そのような状態から自分の力では決して脱出できない、
ということを知っている。
心が命じる正しいことに体が従わない、
という状態から脱出するには、神の力が必要なのだ。

自分の力で歯を食いしばって進むのには限界がある。
しかし、もし、本気で神さまに委ねることができたなら、
ほとんど無限の可能性と力を得ることができる。

逆説的ですが。

多くの場合、必要なのはまず、思い出すことだ。
自分が「主」ではなくて神さまが「主」であることを。
そして自分が救われた存在であり、赦された存在であることを。
そして何より、愛されている存在であることを。

世の中にはさまざまな情報があふれ、
はやりすたりがある。
いま見ているもの、いま聞いていることのどれだけが、
私の人生に益となるだろう。

しかし「いつも神さまを思い出す」というたましいの訓練は
日が経つごとに、時が過ぎるごとに、
なおいっそうその意味を増してくるのだ。

私は自分の力を信じない。   神さまの力を信じる。
私は自分の努力を頼みとしない。神さまの恵みを頼みとする。
私はこの世に安んじない。   神さまの愛に安んじる。

誰かが「聖書に書かれた奇跡を信じない」と言っていた。
「自分の目の前で奇跡が起きたなら信じる」と言っていた。
その人は、自分の存在自体が大きな奇跡であることを知らない。

神さまは全世界を使って私たちひとりひとりを生かしている。

私たちは神さまを忘れ、自分が生きていることの奇跡を忘れ、
広い世界を見ずに、小さな縄目をこしらえて、その中に潜り込む。
そして苦しがっている。

神さま。この罪の縄目を切り捨て、我らを解き放ちたまえ。
あなたを思い出し、あなたを主とあがめ、
すべてをあなたに委ねることができますように。

高らかに、声の限りあなたの栄光を賛美することができますように。

ハレルヤ。
あなたは我らの救い主。

昔も、いまも、後も、主の栄光はとこしえまで。