知識と信仰は違うということについて

結城浩

2000年6月6日

キリストへの信仰は結婚に例える、あるいは食事に例えることができます。

相手の身長・体重・経歴・職業・趣味などのデータが増えることと、
その人と(他のだれでもない)自分が
結婚することの間には天地の開きがあります。
そして、その結婚にはある意味で何の保証もない。
自分が、熟慮の末に、飛び込んで体験するしかないのです。

ある料理の栄養価とかカロリーや香りを調べることと、
自分がそれを食べることとは大きく違うのと似ています。
他の人が食べるのを見ていても、最後は自分で食べなければ
よい影響にしろ、わるい影響にしろ、何も受けないのです。

ですから、どんなクリスチャンの話を聞いても、
聖書を読んでも、最後は自分自身で
「ああ、私は自分勝手に生きてきた存在なのだ、
イエスさま、どうか私の身勝手をゆるしてください」
という罪の告白と信仰告白を心からしないことには、
ほんとうには何もはじまらないのです。

本当の神さまという人格との交わりに入るには、対話が必要です。
イエスさまはあなたの心の扉をいつもノックしています。
神さまは自由意志を重んじる方ですから、
あなたの意志に反して無理やり入り込むことはしません。
あなたが「神さま。私はあなたに心を開きます」と祈るとき、
神さまははじめて、あなたの内に入ることができるのです。
キリスト教の信仰は、ある教えにしたがって生きる、という面だけではない。
人間が、規律に従って生きる、だけなら、神さまはどこにもいない。
私とルールしか存在しないのだから。
そうではない。
神さまがいらして、人間は神さまに従って生きるのだ。
聖書を読むのは、聖書は神様が与えてくださったメッセージだからだ。

神さまに従って生きるなんて、聖書に従って生きるなんてできない、不可能だ、と考える人は多い。
ええ、神さまに従って生きるのは不可能です。人間の力では。
だから、祈るのです。だから、心を神さまに開くのです。
自分の力で神さまに従う、自分の力で聖書に従う、自分の力で愛する、自分の力でゆるす。
それは絶対にぜえええええったいにできないこと。それは無理だし無駄だし危険なこと。
そうではなく、神さまに心を向けること。
神さまに心を開いて、神様から力を受けて歩むのです。
全部自分で予見するのではない。自分の思い通りにすべてを進めるのではない。
よくわからない部分もあるが、神さまに信頼して進むのだ。
自分のやりたいようにではなく、神さまの望まれるように進むのだ。
自分の力を誇るな。自分の力に頼るな。
かといって、自分にはできないとあきらめるな。
自分の力ではできないだろう。
けれども主の御旨にかなうなら、神さまは必ずなしてくださる。
罪を悔い改め、よく祈り、神さまに心を開き、力を受け、
大胆かつ細心に、次の一歩を進めよう。

人間関係でも、仕事のことでも、結婚でも、勉強でも、どんなことでも。

主はいつも、あなたと共におられます。