私がイエスを十字架につけたのだ

結城浩

1997年7月27日

イエスのことだ。
人から圧迫を受けたり、ストレスを感じたりするとき、
私はイエスを十字架にかけたのが自分であるのを思い出す。

十字架にかけるのはバラバではなくイエスだ、と叫んだのは私の声だ。
イエスの頭にイバラの冠をかぶせたのは私の手だ。
イエスの額から流れた血は私の両手を染めた。
イエスにつばを吐き掛けたのは私の口だ。
イエスの手を十字架にクギで打ち付けたのは私の腕だ。
クギを打ち込むごとに、イエスの顔は苦痛でゆがんだ。

…私は泣きながら思うのだ。
自分の痛みを癒すために私には人を痛めつけることが必要だった。
まさに、イエスはそれをしてくれたのだ。
「イエスは人の罪のために十字架にかかった」という。
実態は、もっとなまなましく、どろどろしている。

私がイエスを十字架につけたのだ。

自分のイライラを、自分の苦しみを、自分の欲求不満を、自分の痛みを
まとめてぶつける相手として、
罪を持たない一人の人間イエスを選び、
徹底的に痛めつけ、ついには十字架の上で殺してしまったのだ。

私はアリマタヤのヨセフではなかった。
私はピラトであり、カヤパであり、ローマ兵であり、
ユダヤの群衆であったのだ。

イエスは苦しみを全部受けてくださった。
私の罪が深いゆえに、イエスの十字架は完成した。
その…なんというか不思議な恵みと、
罪の重さが引き金となって救いが完成するという
美しくも壮大な神さまのご計画に、
目も眩むような思いがする。

今日、私が行った過ちを、ふさわしくない言葉を、態度を。
自己保身ばかり考えている自分を。
神さまがお赦しくださいますように。